「子どもは子どもで、せっかく母親と2人になっても仕事の話ばかりで可哀想だし、部下も部下で、トラブルが起きたとき、上司がそばにいなくて気の毒だと、心が引き裂かれそうでした」
葛藤しながらも、問題を抱えた部下に会いに行くため、夜中に飲み会から帰宅した夫に子どもを託し、夫が乗ってきたタクシーにそのまま乗り込んで、午前2時に会社に急行するなんて事もあったという。
事業部長への大出世、そして挫折……
そこまでしたかいもあり、復帰1年後には再び、営業マネジャーに返り咲いた。その直前に手掛けていた「リクナビ派遣」のリニューアルが大成功し、「最高査定をもらった」のが決め手となった。
そして、さらにその1年後には、なんと人材部門では7~8人しかいないという「カンパニーオフィサー(事業部長)」職に昇格。最年少、かつ唯一の女性カンパニーオフィサーが誕生した瞬間だった。
部下は全国におよそ70人。100億円規模の事業の全責任を負う大役だ。それはもう、「かわいげとか愛嬌で勝負できるような世界ではない」。やるべき課題は山積みだった。
「法律も事業計画の勉強も急ピッチでする必要がありました。これはもう素直に先人の教えを請うしかないと、過去の事業計画書を取り寄せ、それを担当した社内外の人を訪ね、『教えてください』と聞いて回りましたね」
ところが、そんな折、100年に1度の経済危機と言われた「リーマンショック」が人材市場を襲った。
「これはキツかった。打つ手打つ手がうまくいかず、業績は下方修正につぐ下方修正です。上司には、『達成できない計画を出してくるな』と怒鳴られ、『お前には“地の”スジのよさが欠けている』とまで言われて、どう責任を取ったらいいか、毎晩、怖くて怖くて眠れませんでした」
しかも、当時の堂薗さんは私的に別の悩みも抱えていた。「2人目不妊」の問題だ。
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