「あんな性根の曲がった悪人が出世するんだから、世も末だ」なんて愚痴のひとつも言いたくなる理不尽な経験、お持ちの方も多いのではないでしょうか。世の中とはすべからく理不尽なもの、と言ってしまえばそれまでですが、そんなふうには割り切れないのが人間というもの。もしあなたが「なぜ自分のように真面目にやっている善人が日の目を見ないんだ・・・」なんて悶々としているなら、今こそ自分も”悪人”へと脱皮し、出世をつかむチャンスです。
悪人になって出世をつかめ? お坊さんのくせにとんでもないことを勧めるヤツだと思われるかもしれませんが、いたって本気です。といっても、出世のためなら同僚を出し抜いたり法律のグレーゾーンを攻めたりなどと、いわゆる普通の意味での悪人のマネをしろというわけではありません。”真面目な善人”にとって出世の妨げになっているのは、そういった戦術レベルの問題ではないのです。克服しなければならないのは、自分のことを"真面目な善人”であると見るその認識です。
みんな「そこそこの善人」どまり
人間は誰しも、多かれ少なかれ「自分はそこそこの善人」であると思っています。私自身を振り返ってみても、つい自分は善人である、善人でありたいと考えてしまい、何か問題が起きれば「あれが悪い、これが悪い」と自分を棚にあげて他人を批判したり文句を言ったりしてしまいます。
自分が善人でありたいと思うのは、自分の価値を他人との相対的な善悪で測ろうとする習性が染み付いているからです。それは自分のなかにつくりあげた世間を気にかけているだけで、本気で自分自身を深く掘り下げて見たものではありません。「自分はそこそこの善人」という思いは、他人との比較、それも自分の中に作り上げた他人のイメージとの比較によって、自己を規定しているだけです。
このように、ちょっといい位置、他人と比べて少しでも優越感を得られる位置に自分を置こうとするのは、自己愛や自己中心性という誰もが持つ人間の習性です。そして、その根底にあるのは人間の心の奥底に巣くう不安や恐れ。この不安や恐れが、自分というものの確かさを常に確かめたくて仕方がないという気持ちをかき立て、自分をいい位置に置こうという力として働いてしまうのです。
しかし自分は固定した実体であり、連続的に存在していく「個」であるという捉え方は幻想に過ぎません。にもかかわらず、人間の認識力は固定的なものの見方をしてしまう傾向があります。たとえば目の前を流れる川は、本当は水が絶え間なく流れ続けて一刻として同じ状況であることはないのに、人間は固定的な「川」として見ます。
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