一時的なものを絶対的なものとして固定化して見ようとしてしまうのは、仏教からすれば「ありのままに見られない」ということです。自分をいい位置に置こうとする力が働くのも、ものごとをありのままに見ることができず、自分の視点にとらわれ、幻想に過ぎない個としての自分にしがみついてしまうからです。そうやって”真面目な善人”という自分であることに執着すると、だんだんとがんじがらめになり自分の殻を打ち破れなくなってしまいます。
このように「自分は真面目な善人である」と思い込みたい気持ちの奥底にある不安や恐れ。それに負けて自分という個にしがみついている人は、既存の殻を破るような大きな仕事に踏み出すことはできません。
善人ですら救われるのだから、悪人ならなおさら救われる
親鸞聖人の言葉に「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というものがあります。善人ですら救われるのだから、悪人ならなおさら救われるという、過激な響きに記憶のある方も多いでしょう。お分かりのとおり、ここで親鸞聖人はいわゆる世間的な悪事をはたらく人間になれとすすめているわけではありません。そうではなくて、どんな人間にもあるどうしようもない悪人性を一人ひとりが自覚することの大切さを説いているのです。
他人と比較などしなくても人はありのままで、本当にかけがえのない命を生きています。善悪という相対的な、他人との比較のなかで生きるのは、実は自分自身を貶めていることに気付かなければなりません。そもそも人は善人ではあり得ず、善人・悪人という他人との比較から離れていくことが大切です。それは要するに、他人との比較で自分を規定するのはやめるということです。言い換えれば他人の人生を生きるのをやめて、ありのままの自分をそのままの自分として引き受けていく。そうすることによってはじめて自分の人生を生きられるようになります。
会社で働く人の多くは、それが本当に自分の生きたかった人生なのかを問うこともなく、とかく社内外の競争に巻き込まれていきます。そこではたと気が付いて「これでいいのだろうか」と感じている人は、まさに殻を破る入り口に立っている人です。そこで「それでも、あいつよりはマシ」というふうに、他人との比較において自己のポジションを確かめようとする”善人”マインドを発動してしまうと、せっかくの入り口が閉じてしまいます。大切なことは、他人を引き合いに出すのではなく、自分自身を問うことです。
ところで、これからの企業は社員一人ひとりのリーダーシップが求められますが、リーダーシップは競争のなかで開発されるものではなく、根本的な人格形成や広い視野、長い時間軸でものを見る力を鍛錬していかねばなりません。他人と比較して「自分の方が善人」「あいつはダメ」というような狭い世界でやっていては、組織自体も疲弊し殻を打ち破る力を失ってしまいます。
善悪という他人との比較から離れるには、「自分は善人ではない」ことを徹底的に腹落ちさせていく必要があります。それには善人であらねばならないといった脅迫観念や、自分への執着心を手放すことです。人間の自分に対する執着心はものすごく強いですが、それを手放すと心の自由が得られます。自分が善人であると思いたい人は「他人に迷惑をかけてはいけない」とよく言います。しかし人のありようをありのままを見てみれば、迷惑をかけずに人が生きていくなどできないことに気付くでしょう。
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