親鸞聖人は『歎異抄』で「縁さえあれば誰でも大変な罪を犯すことがある」とおっしゃっています。「私は善人」「彼は悪人」なのではなく、誰のなかにも善人性や悪人性があり、その発現は縁次第であると。これは仏教でいうところの「縁起」という考え方です。 縁によってあらゆるものはつながり合い、支え合って成り立っています。ですから、犯罪をした人はたまたまそういう縁や境遇に触れたから罪を犯したのであって、縁や境遇によっては自分が罪を犯したのかもしれない――。そういう見方をしていくと、自他を隔てる壁が崩壊し、新たに見えてくる地平があるでしょう。
「出世」はもともと「出家」の意味
自らの「悪人」性を腹の底から認められるようになったら。たとえば、実力がないのに上司にごますりばかりしている人が昇進したとしても、それほど気にならなくなるでしょう。不条理に対して怒りが湧いても、多かれ少なかれ自分も縁に触れれば同じような行動をとるかもしれないことに思いが至れば、他人を非難するより、自分のやるべきことをやることに気持ちが集中できます。その結果、仕事のパフォーマンスは向上し、周囲から人格も認めてもらえるようになり、より大きなステージへと立つことができるようになるでしょう。
華厳経に「インドラ網」という言葉があります。あらゆる命は網の目のようにつながりあっていて、確かに存在しているけれど、ほどけばなくなってしまう。私という存在も、複雑に絡み合ったロープにたまたまできた網の目のようなもので、実体はないが、確かにある。インドラ網の網の目には宝石が輝いていて、それら一つひとつの宝石を見ると、他のすべての宝石のきらめきを映し出している。なんと美しくも多様で豊かな世界観ではないでしょうか。
自分に対する執着を手放すには強い恐怖を感じるかもしれません。しかしそれを手放したとき、インドラ網のきらめきやかけがえのなさが見えてきます。多くの命とつながりあった自分というものが確かに存在し、人はどこまでいっても孤独ではないと気付くのです。
逆に自己愛や自分への執着心の強さは、自分と他人を隔てる壁を厚くしているようなもの。壁を高くして安心を得ようとしたはずなのに、高くするほど孤独に陥ってしまいます。
人が孤独な時代だからこそ、ますます自分が良い縁となっていくような働きをすることが、仕事においても重要な視点になるでしょう。出世ということを考えても、他人を蹴落として這い上がろうとする視野の狭い”悪人”は論外としても、他人と比べて自分がまだましな”善人”であると思い込む人も、人間の小ささという点では同じです。自分の悪人性を自覚してこそ、他人の悪人性も理解できるし、心も広くなるというものです。
ちなみに「出世」という語はもともと「出世間」から来ており、世間の枠から外に出ること、すなわち出家することを意味しました。世間を飛び出して新たな価値観で生きるというお坊さんにとって大切な行為ですが、一説によれば、世間から出たと思ったお坊さんが入った仏教の世界がこれまた世俗と同じように上の位へ上がるための昇進レースであったことから、現在の意味になったそうです。
出世、出世権、出家。今あらためて、そのつながりを考えさせられますね。
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