大政奉還も実は緻密な戦略「徳川慶喜」驚く突破力 倒幕に動く薩長を困らせた「先手先手の対応」
江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。将軍になどなりたくなかった慶喜だが(第1回)、若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになり、政権の中枢に据えられていく(第2回)。
大政奉還への不満や怒りは織り込み済み
「未曾有のご英断、誠に感服に堪えず」
徳川慶喜が意外にも大政奉還に応じる姿勢を見せると、提案した土佐藩の後藤象二郎らは、そう口にした。一方で、不満を持った者も多くいた。江戸から入れ替わり立ち替わりに老中が慶喜のもとに現れては、口々にこう責められたと、慶喜自身が振り返っている(『昔夢会筆記』)。
「なぜ、政権を返してしまったのですか。今になって徳川家を潰してしまっては、東照宮に対しても申し訳がたちませんぞ!」
東照宮とは、家康のことである。初代に顔向けができないと批判されたら堪えそうなものだが、慶喜は「関東の者は総じて時勢に疎く、すこぶる説得に困った」と、どこ吹く風である。老中だけではなく、会津藩、桑名藩の両藩や幕臣を中心にさまざまな方面から、大政奉還への不満や怒りの声が上がるが、そんなことは織り込み済みだ。
このとき慶喜が注視していたのはただ一点、薩長の動きである。慶喜が二条城の二の丸御殿に、老中などを集めて政権返還について演説したのは、慶応3(1867)年10月12日。翌13日に在京諸藩の重臣に通告し、さらにその翌日の14日に、慶喜は大政奉還の上表文を朝廷に提出している。
後藤が幕府に建白書を提出したのが10月3日であることを考えると、かなりのスピード感である。老中や在京諸藩の重臣に通告したときも、慶喜の勢いに気圧されて、その場では真正面から反論した者がいなかったというから、相当な決意をもって断行したことがわかる。
さらに慶喜が朝廷に強く求めたため、その翌日の15日には受理されている。朝廷にすれば、望んでもいない政権を無理やり渡された格好だが、慶喜は急いでいた。実際のところ、もしこの決断が一日でも遅れていたら、状況は大きく変わっていただろう。
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