最後にていは「見義不為、無勇也(義を見てせざるは勇なきなり)」と言うが、こちらは朱子によれば「義とは絶対的な原理である」(『論語集注』巻二、里仁篇、第十六章)と言い、「原理原則を知りながら行わないのは勇気が足りないのだ」という意味になる。
この場面で原理原則について述べているのは栗山であるから、ていがこの言葉を持ち出すと「うちの主人は物事の原理原則というものがわかっていながら、小心者だからそれを行えないのです」と言ったことになり、「義を見てせざる」のは蔦屋になる。
つまり、これらの古典の文言にのっとれば、ていが全面的に蔦屋の悪事を認めたうえで、命乞いをする形になるのが自然である。よって栗山が心を動かされることはありえず、蔦屋に対する刑罰も妥当なものとなる。
ドラマの一場面に朱子の注釈まで持ち出して解釈し直すのは、揚げ足取りのように思えるかもしれないが、そうではない。
見ようによっては、ていほどの読書人であれば、前回解説した定信の「出版統制令」の意味を理解しており、故にこうした『論語集注』『中庸章句』の解釈によって、一見すると蔦屋を落としながら、必死の助命嘆願をしていると見ることもできるし、そのほうが、後のシーンで蔦屋を殴る意味が際立つ。
蔦屋が用意した「政治権力vs.メディア」という構図
さて、ここで重要なのは、朱子学の文脈にのっとれば、原理原則を明らかにしたうえで、なおそれに勝手な自我を押し出して逆らうことは、決して許されないことである。
この場合の原理原則とは、「出版統制令」に記された①新規出版は許認可制とする、②裏づけのない時事情報を一枚画で版行することの禁止、③卑猥な内容や世間を煽る政治主張の規制、④遊郭の恋愛を描いた好色本の絶版、⑤新刊書の奥書に作者と版元の実名記入を義務づける、⑥児童の読み物に猥褻(わいせつ)な内容を入れることの禁止などである。
これを「政治権力vs出版業者」にしたがる蔦屋こそ、見当違いの独りよがりであり、単にルール違反をしたから粛々と罰せられたのであって、定信がことさら蔦屋を執拗に追い詰めたなどということはない。
蔦屋が用意した「政治権力vs.メディア」という構図にうっかり乗ると、定信は限りなく非現実的で自己本位な「悪役」になってしまうのである。これはある意味、メディアの印象操作にそのまま乗っかっているとも言える。古典を深掘りするとそんなことが垣間見えるのである。



















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