松平定信の出版規制、逃げ足が速すぎた大田南畝と出頭拒否した恋川春町の運命

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イメージ(写真:KAZUMI / PIXTA)
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NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍した人物や、蔦重が手がけた出版物にスポットライトがあたっている。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の第36回は、松平定信の政策と処罰された江戸のクリエーターたちについて解説する。
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良くも悪くも実行力あふれる松平定信

どうも思っていたのと違うと、庶民の間では不満がかなり溜まっていたらしい。11代将軍の徳川家斉が老中首座に据えた、松平定信による政策のことだ。

御三卿の一つ「田安家」に生まれた定信は、幼少期から聡明で、8代将軍・吉宗の孫とあって将来を期待されていた。田沼意次と一橋治済の働きかけによって、白河藩に養子に出されてしまい、栄達の道は絶たれたかに見えたが、白河藩の3代藩主として確かな結果を残す。定信の政策が功を奏して、天明の大飢饉において、白河藩では一人も餓死者を出さなかったのだ。

米価が全国的に高騰し続けて「打ちこわし」が起こるようになったことで、田沼派の重臣たちも罷免。「定信なら何とかしてくれるのではないか」という期待を背負って、天明7(1787)年、老中に就任することになった。30歳という若さで、すぐさま老中のトップである老中首座に据えられたことからも、周囲の期待がうかがえる。

定信は老中となると、賄賂が横行した田沼意次による商業主義政策を見直すべく、緊縮財政と風紀取り締まりによって、幕府の財政を立て直そうとした。都市で働く者を農村に帰す「帰農令」を発して農業人口を確保しながら、飢饉対策として1万石につき50石の米を大名に蓄えさせる「囲米」の実施などを行っている。

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