松平定信の出版規制、逃げ足が速すぎた大田南畝と出頭拒否した恋川春町の運命

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また、貯蔵米の購入や保管を担う「町会所」を設置。この町会所から窮民に対して救済手当を支給したり、困窮した地主への貸与を行ったりすることで、有事の際に混乱に至らぬように備えた。この町会所が貯蔵米の売買による米価の調節も担うことになった。

備えあれば憂いなし。定信の政策によって、天保期に飢饉が起きたときには、江戸で大規模な打ちこわしが行われることはなかったという。

持ち前の実行力で、打ちこわしの予防体制を構築した定信。だが、その一方で、ぜいたくや派手なものを禁止して人々の暮らしを統制しようとした。娯楽も厳しく取り締まったことで、民衆には鬱憤が蓄積されていく。

「文武奨励策」を茶化したヒット作が問題に

日に日に高まる人びとの不満を肌で感じたのだろう。みなのストレスを発散させるような作品を世に送り出したのが、蔦屋重三郎である。蔦重が皮肉のターゲットにしたのは、定信による「文武奨励策」だ。

定信は商業重視の田沼政治によって、武士の風紀や気風がすっかり失われてしまったと危機感を持っていたようだ。定信は武士たちに「学問と武芸に励め」と文武を奨励する政策も打ち出すことになる。

「武」については、将軍の御前で武術を披露する武芸大会「上覧試合」(じょうらんじあい)を何度も開催。卓越した武術者には名誉を与えるとした。

一方の「文」についても、定信の構想はどんどん広がっていった。

幕府の儒者である林家が大学頭として聖堂で教えていたが、施設が狭かったために建物を増築して校舎を拡張。「昌平坂学問所」と改め、幕府直轄の学校とした。施設の充実をはかりながら、「寛政の三博士」と呼ばれた柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲ら高名な朱子学者を招くなど、人材も充実させている。

定信の頭のなかで、大勢の武士たちが日夜文武に励む姿が見えていたことだろう。だが、蔦重はそんな定信をおちょくるかのように、問題作を相次いで世に送り出している。

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