松平定信の出版規制、逃げ足が速すぎた大田南畝と出頭拒否した恋川春町の運命

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天明8(1788)年には、喜三二作の『文武二道万石通』(ぶんぶにどうまんごくとおし)を出版。鎌倉時代にぐうたらしていた武士が、突然の文武奨励の政策に慌てふためく姿を描いて、大ヒットとなる。

さらに翌年の寛政元(1789)年には定信が書いた教諭書『鸚鵡言』(おうむのことば)を茶化した恋川春町の『鸚鵡返文武二道』(おうむがえしぶんぶのふたみち)を刊行した。帝の命で源義経が人々に剣術や弓馬術を指南するも、人々が暴走する姿を描き、鎌倉武士の物語としながら、定信の政策を茶化している。店頭はパニックになるほどの、大ベストセラーとなった。

民衆の空気を読むことに長けた蔦重らしい仕掛けが見事にハマった格好になったが、これには定信も黙ってはいられなかった。幕府の威圧によって、喜三二は戯作の筆を折らざるを得なくなり、春町は定信から出頭を命じられた。春町はこれを拒否したのち、数カ月後に死去。自ら命を絶ったともいわれている。

いち早くフェイドアウトした大田南畝の嗅覚

寛政3(1791)年の春には、蔦重プロデュースの山東京伝による『仕懸文庫』(しかけぶんこ)、『青楼昼之世界錦之裏』(せいろうひるのせかいにしきのうら)、『娼妓絹篩』(しょうぎきぬぶるい)の洒落本3冊が、出版取締令に触れるとして、絶版を命じられることになった。

京伝は手錠をかけたまま自宅に50日間におよぶ謹慎処分を受けた。版元の蔦屋重三郎には、身上に応じた重過料(罰金刑)が科せられることになったという。

茶化されて怒れる定信によって、江戸のクリエーターたちが次々と窮状に追い込まれることになったが、そんな事態を予想してか、いち早く文芸活動から身を引いた人物がいた。狂歌師の大田南畝である。

大田南畝もまた定信の「文武奨励策」をいじって、こんな狂歌を残したと言われている。

「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて  夜もねられず 」

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