「二度も田沼を刺し殺そうとした」老中・松平定信が自ら明かした田沼意次【暗殺計画】

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白河小峰城(写真:KENGO / PIXTA)
白河小峰城(写真:KENGO / PIXTA)
NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍した人物や、蔦重が手がけた出版物にスポットライトがあたっている。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の第32回は、田沼意次を刺殺しようとまで考えたという老中の松平定信について解説する。
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松平定信「二度も田沼を刺し殺そうとした」

恐ろしくカタブツで独善的な男が老中になったものだ……江戸のクリエイターたちは、そうため息ついたことだろう。

天明7(1787)年6月、松平定信は30歳で老中に抜擢されると、すぐに老中のトップである老中首座に就任。天明8(1788)年3月には、将軍補佐にまで任命されている。時の将軍は第11代将軍・徳川家斉だ。「定信に全部任せてしまおう」という意向がありありと伝わってくる。

全権を掌握した定信が断行したのが、「寛政の改革」である。ぜいたく品を禁止して倹約を推奨。緊縮政策をとって財政再建を目指しながら、コメを備蓄する「囲米」制度を実施し、飢餓にも備えた。

その一方で、定信は思想統制や言論弾圧にも乗り出している。上下関係や身分の秩序を重んじる「朱子学」以外を禁じたばかりか、風俗を乱したり、政治批判を行ったりする出版物を禁じる「出版統制令」まで発布した。

庶民は、田沼時代の自由で開放的な文化を懐かしんだようだ。「白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき」という狂歌が詠まれたことはよく知られている。

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