だが、定信からすれば、そんな反発ごときで立ち止まる気はなかったことだろう。田沼時代の悪習を一掃することに、並々ならぬ意欲を燃やしていた。
なにしろ、定信は将軍に差し出した意見書で田沼意次のことを「盗賊同然」とまで舌鋒するどく批判し、こんな物騒なことまで言っている。
「二度も田沼を刺し殺そうとした」
意見書では「刺し殺し申すべくと存じ、懐剣までこしらへ申候し」とも書いており、懐に剣をしのばせて狙っていたが、つけ入る隙がなくて断念した……と殺害計画まで明かしている。
殺害を諦めて媚びを売ることにした定信
実際には、意次の殺害は踏みとどまった定信だったが、それ以後の動きもなかなかすごい。意見書には次のようにある。
「誠に敵とも何とも存じ候盗賊同様の主殿頭へも、日々のように見舞い、かねて不如意の中より金銀を運び」
暗殺するのを諦めた定信は方針をがらりと変えて、盗賊と同様である意次のところに足しげく通って、田沼邸へとせっせと金銀を運んだというのだ。
そうして表向きはこびへつらうことで「溜間詰」になったと、得意げに語っている。溜間詰は、老中と同席して政務に携わる職務のことである。
そのうえ「外よりながめ候ては気に入り候老中は一人もこれなく候」、つまり、外から見ている限りでは、自分が気に入るような老中は誰もいない……と毒づいた定信。「心を捨て欲を捨てる賢良の人を用い成さるべく候」として、私心も欲もない賢人である自分を重用すべし、と将軍にアピールしている。
この意見書はいつ出されたのか。定信は天明5(1785)年に溜間詰になり、翌年の天明6(1786)年8月25日に10代将軍の家治が死去したのち、前述したように、天明7(1787)年6月に老中となる。
溜間詰になってから老中になるまでの間に、定信はこの意見書を11代将軍の家斉に提出したことになる。つまり、定信が意次を「刺そう」と考えたのは、溜間詰になる天明5(1785)年より前ということになる。
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