そして、その予感は的中する。治察が若くして命を落とし、田安家を相続するものがいなくなって絶家の危機を迎えた。定信の田安家復帰がはかられたが、またも田沼意次の策略で実現しなかったという。
田安家の行く末を憂う定信を、ことごとく邪魔する意次。田安家と同じく御三卿の一つである一橋家の当主・一橋治済が、田沼意次の協力を得て、定信を白河藩へ養子に出さざるをえないように仕向けたともいわれている。真相はわからないが、状況的には、定信が意次を深く恨んだのも無理はないだろう。
白河藩で辣腕を振るい老中へ
殺してやりたいと思うくらい意次への恨みを募らせた定信だったが、養子先の白河藩では、藩主として辣腕を振るう。
飢饉対策として、凶作を免れた越後にある白河藩の飛び地から1万俵のコメを送らせて、江戸では食料品や日用品を買い集めて、白河に送っている。また、公共事業や藩の特産品を生み出すことで、雇用の創出にも取り組んだ。
そうした対策を着実に行うことで、未曽有の大飢饉にもかかわらず、白河藩ではひとりの餓死者も出さなかったというから、「名君」といってよいだろう。
将軍への意見書では、やや暴走してしまった定信だが、それまでの経緯を踏まえれば、ようやく自分の時代が来たと、思わず前のめりになってしまったのも無理はない。
10代将軍の家治が死去して2日後、天明6(1786)年8月27日に意次は老中を辞任。しかし、それ以後も田沼勢の影響力は大きく、定信が老中になるまでに9カ月を要した。
「寛政の改革」は、そんな定信がまさに満を持して断行した一大改革だった。

【参考文献】
後藤一朗『田沼意次 その虚実』(清水書院)
藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房)
辻善之助『田沼時代』(岩波文庫)
松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(講談社学術文庫)
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』 (平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
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