松平定信が「良臣」と認めた藩士の立ち回り 定信の意に背くも、"私欲がなく正直なふるまい"が高く評価されたそのワケ

聡明の誉れ高い定信を田安は手放したくなかった
安永4年(1775)の春、後に江戸幕府の老中となる松平定信17歳の時、定信の養父で陸奥白河藩主・松平定邦が花見の席で、俄かに発病します(定信は、8代将軍・徳川吉宗の孫であり、田安宗武の7男。同年、定信は定邦の養子となります)。
「中風」の症状が出て、言語もなく、体の右方が痺れて感覚がなくなり「気も絶え」るような状態でした。
しかし、療養の甲斐あって、2、3日もすれば、意識が回復してきたとのこと。
白河から以上のようなことが、定信に伝達された時、彼は「むねつぶる」(胸が潰れる。ハラハラ、ドキドキ)想いをしたそうです(定信の自叙伝『宇下人言』)。定邦が病に倒れたと聞いた人々のなかには「今こそ定信を破縁にして、田安家の後継としてください」と願うものもありました。
定信の兄・治察は、宗武亡き後、田安家を継承していましたが、治察もまた病没。田安家は絶家の危機を迎えていたからです。
幼少の頃より聡明の誉れ高い定信を田安家に戻す。そうなれば、何れ、(白河藩にいるよりは)将軍の座も見えてきます。
田安家は御三卿の1つです(他には一橋家、清水家)。御三卿は、御三家(尾張・紀伊・水戸徳川家)と同じく、将軍家に後嗣なき時は、その後継を出す資格を有していました(御三卿は、徳川吉宗~9代・家重の頃にかけて創出されました)。
「定信を田安家に戻してほしい」という人々の願いは、幕府に聞き届けられることはありませんでした。
同年秋には、定邦の病も大分良くなり、白河から江戸に行けるまでになります。その時、江戸にいた定信は、定邦に拝謁したそうです。
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