「彼は偽りを言った。私は辱められました」 松平定信が親友だった大名と縁を切った彼らしい理由

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イメージ(写真:kouji / PIXTA)
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今年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は松平定信にまつわる逸話をご紹介します。
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定信には6人の“信友”がいた

天明2年(1782)、後に徳川幕府の老中となる松平定信(1759〜1829)にある変化が起こります。天明2年というと、定信23歳のときです。

では、その変化とは何か?定信の自叙伝『宇下人言』によると、それはこの頃より「信友」(信頼できる友。今風に言うと親友ということか)と多く交わり、交流するようになったというのです。

天明2年は、定信が奥州白河藩主に就任する前年でした。定信の言う「信友」たちとは誰のことを指すのでしょう。

前掲書によると、本多忠籌(陸奥国泉藩主)、本多忠可(播磨国山崎藩主)、戸田氏教(美濃国大垣藩主)、奥平昌男(豊前国中津藩主)、堀田正穀(近江国宮川藩主)、松平信亨(出羽国上山藩主)ら6人のこと。

彼らは歌を詠みあったり「善を勧めたり」(良いと思うところを勧めたり)していたようです。そんな定信の親友の中に問題児とも言える人物がおりました。

それが、出羽国上山藩主の松平信亨です。信亨は延享3年(1746)、松平信将の嫡男として誕生。

父の死去により、宝暦11年(1761)に家督を継承していました。その後、大坂加番などを務めます。

では、信亨のどのようなところが問題児だったのか。定信が記すところによると、信亨は元々「放蕩」であり「大坂在番中も行いが良くなかった」とされます。そうしたところから、信亨が務めを終えて大坂から帰っても、家臣は信服していなかったとのこと。

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