松平定信が「良臣」と認めた藩士の立ち回り 定信の意に背くも、"私欲がなく正直なふるまい"が高く評価されたそのワケ
その年の冬、定信の妹・種姫(11歳)が、10代将軍・徳川家治の養女となります。これは、家治の長男・家基と種姫を結婚させる目論見があったと推測されます。
が、両者の婚姻は、家基が早世したことから実現せず。種姫は、紀州藩主・徳川治宝の正室として嫁ぐことになるのです(1787年)。
さて、安永4年の年の暮れ、定信は従五位下・上総介に叙任されます。
この時、人々は「世継ぎならば(田安家にいたならば)、初めから中将(従四位下相当)であったものを」と噂したそうですが、定信自身は「誓って、そのようなことは露ほども思わない」と断言しています(『宇下人言』)。なぜか。
「自分の器量の小、才能の短に相当する位であるので、10万石でも多い。従五位下でも高いくらいだ」と思っていたからです。
定信ほどの家柄に生まれれば、周りもチヤホヤしますし、そうなれば、本人も勘違いしてしまいがちです。しかし、定信は慢心することなく、自らを律していたと言えましょう。
白河に向かうも病に伏せる
安永5年(1776)3月、定信はいよいよ江戸から白河に向かいます。
ところが、白河に赴く途中で、風邪気味となり、とても苦しくなって、小山(栃木県)で1泊。その後は、駕籠で寝つつ、白河に入国したとのこと。
病は日に日に良くなっていったようですが、完全回復せず、暫くは病床の人となったようです。
とは言え、1日中寝てばかりいて、何もしなかった訳ではありません。病床において、藩士が剣・槍・弓・馬術に励むのを見たり、時に藩政を担当する者を呼び寄せて、色々な物事を尋ねたりしたのでした。
ある時、定信は白河藩で横目役を務める川村安右衛門を呼んで、家中の人々の「善悪」について尋ねたようです。安右衛門は何れ藩主にもなるであろう定信にすんなり答えるかと思いきや、そうではありませんでした。


















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