大河「べらぼう」紛争か通商か、ロシア船来航に松平定信が採った「秘策」とは

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(写真:rujin / PIXTA)
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今年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は横浜流星さんが主演を務めます。今回はロシア船来航の際の松平定信の対応を解説します。
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ロシア初の遣日使節アダム・ラクスマンが根室に来航

寛政4年(1792)9月、ロシア帝国の軍人で、ロシア初の遣日使節アダム・ラクスマンが根室に来航します。日本との通商を希望する信書を手渡すためやって来たのです。ラクスマンは、伊勢国出身の漂流者・大黒屋光太夫らを伴っていました(漂流者を送還するためです)。ラクスマン来航時の徳川幕府老中首座が松平定信でした。

定信は、ロシア使節の根室来航を松前藩からの報せで知ります。そして、老中間で対応を協議することになったのです。さらには、寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行に意見を求めます。三奉行の意見は分かれますが、それは次のようなものでした。

「漂流民は受け取る。しかし、ラクスマンが江戸に来ることは拒否する。それを聞き入れなければ断固とした措置をとる」

「外交は長崎で行うことになっている。よって、蝦夷地では交渉はできない。ラクスマンに長崎に行くよう伝えて、帰す」

「ロシアとの通商を始めるならば、蝦夷地でよい」

一番最後の見解は、ロシアとの貿易を開始するというものであり、開明的と言えましょう。ちなみに、定信の自叙伝『宇下人言』にも、ラクスマン来航について触れられています。

それによると「ロシアの人、船に乗り来り。漂流した日本人伊勢国の幸大夫(光太夫)なるものを渡すべしとして連れ来る」とあります。

ロシア使節が松前志摩守に宛てた書状を定信は披見します。定信によると、そこには「幸大夫(光太夫)を送還したいので、江戸に来航し、役人に渡したい。江戸に来航することについて、もし江戸(幕府)よりの指図がないならば、江戸に直に来航する」と書いてあったようです。

定信はロシア使節の来航にどのように対処しようとしたのでしょう。

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