「二度も田沼を刺し殺そうとした」老中・松平定信が自ら明かした田沼意次【暗殺計画】

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田沼意次の息子である田沼意知が、佐野政言に斬られて、その傷が原因で亡くなったのは、天明4(1784)年4月2日のこと。ちょうどそのあたりの時期に、定信は意次を亡き者にしようとたくらんでいたのだ。

大河ドラマ「べらぼう」では、息子の意知が人生を閉じようとしているときに、意次が「なぜ俺じゃないんだ!」と慟哭するシーンがあった。実際のところ、状況的には下手をすると、意次が定信に刺殺されていてもおかしくはなかった。

定信が意次を殺したいほど憎んだワケ

定信が意次をそこまで憎んだのは、単に政策に対する考え方が違うということではないだろう。

定信は宝暦8年12月27日(1759年1月25日)、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれた。8代将軍・徳川吉宗の孫にあたり、その聡明さから将来が期待されていた。

ところが、10代将軍の徳川家治の命によって、白河藩主・松平定邦の養子となることになった。その理由については、養母だった宝蓮院から、次のように言われたと、定信は自伝『宇下人言』で明かしている。

「もと心に応ぜざる事なれども、執政邪路の計らいより、せんかたなくかくなりし」(もともと養子話に応じることは本意ではなかったが、老中たちの謀により、やむなく養子に出すことになったのだ)

さらに定信は「執権より台命のやうにあざむきていひければ、其上はせんかたなく許し給ふ」と、意次が将軍の命のように欺いた、とまで書いている。

御三卿のひとつである田安家は、将軍に後継ぎがいなければ、将軍候補を出す可能性がある。定信の才能を恐れた田沼が、田安家から定信を切り離すために、養子縁組を仕組んだのではないか。事実はともかく、少なくとも定信やその周辺は、そう理解していたようだ。

定信としては「其頃治察卿にも未だ世子も持ち給はず侍れば」とあるように、跡継ぎの徳川治察に子が生まれていないため、田安家の跡継ぎがいなくなることを心配していたようだ。

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