48歳で人生を閉じた蔦重、90年で廃業した耕書堂
寛政9(1797)年5月6日、江戸のメディア王・蔦屋重三郎は48歳で人生を終えることになった。当時「江戸患い」とも呼ばれた脚気に、寛政8(1796)年の秋には罹患していたようだ。
死を迎えるにあたって「今日の午の刻(正午12時)に自分は死ぬだろう」と予言した蔦重だったが、その日の夕刻に他界。番頭の勇助が二代目の「蔦屋重三郎」を襲名した。
だが、三代目の代から経営不振に陥り、日本橋通油町から浅草寺の雷門外へ移転。四代目の代では地本問屋の株も手放すことになった。四代目が没した年に、耕書堂は廃業に至る(過去記事「「べらぼう」蔦重亡きあとの耕書堂はどうなった?」参照)。
蔦重が安永2(1773)年に吉原で開業してからおよそ90年で、耕書堂の歴史が幕を閉じることになり、周囲は改めて初代の偉大さを痛感したに違いない。



















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