二代目は葛飾北斎とタッグも三代目から経営不振…大河「べらぼう」蔦屋重三郎亡きあとの耕書堂はどうなったのか

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期間限定でオープンしている観光案内や土産の販売をする施設「江戸新吉原耕書堂」(写真:Masa / PIXTA)
江戸新吉原耕書堂※期間限定オープン(写真:Masa / PIXTA)
NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍した人物や、蔦重が手がけた出版物にスポットライトがあたっている。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の第49回は、蔦重亡きあとの耕書堂について解説する。
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蔦重のもとへ見舞いに訪れた大田南畝

「惜むべし、寛政九年の夏五月脚気を患ひて身まかりぬ。享年四十八歳なり」

曲亭馬琴が『近世物之本江戸作者部類(きんせいもののほんえどさくしゃぶるい)』でそう書いているように、寛政9(1797)年5月6日に蔦重は48歳でその生涯を閉じる。

寛政8年の秋にはすでに脚気を患っていたようだ。当時の江戸では白米が主流となっていたため、ビタミンB1が欠乏することで起きる脚気が流行。「江戸患い」とも呼ばれたこの病に、蔦重も罹患してしまったようだ。

狂歌師の大田南畝は寛政9年の年明けから、蔦重の見舞いに訪れるようになる。

南畝が幕臣として記した勤務日誌『会計私記』(寛政8年11月1日~寛政9年6月14日)では、寛政9年3月27日に耕書堂へと見舞いに訪れたときのことを、こう書き記している。

「耕書堂にも立ち寄ったが、病は全快していなかった」

會計私記
大田南畝著『會計私記』(濱田義一郎写、1942、九州大学附属図書館所蔵

大田南畝が『寝惚先生文集』で世に出たのは明和4(1767)年、19歳の時。蔦重と交流し始めたのは、天明元(1781)年に南畝が黄表紙評判記『菊寿草』を出した頃なので、2人は15年以上の付き合いということになる。

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