蔦重のもとへ見舞いに訪れた大田南畝
「惜むべし、寛政九年の夏五月脚気を患ひて身まかりぬ。享年四十八歳なり」
曲亭馬琴が『近世物之本江戸作者部類(きんせいもののほんえどさくしゃぶるい)』でそう書いているように、寛政9(1797)年5月6日に蔦重は48歳でその生涯を閉じる。
寛政8年の秋にはすでに脚気を患っていたようだ。当時の江戸では白米が主流となっていたため、ビタミンB1が欠乏することで起きる脚気が流行。「江戸患い」とも呼ばれたこの病に、蔦重も罹患してしまったようだ。
狂歌師の大田南畝は寛政9年の年明けから、蔦重の見舞いに訪れるようになる。
南畝が幕臣として記した勤務日誌『会計私記』(寛政8年11月1日~寛政9年6月14日)では、寛政9年3月27日に耕書堂へと見舞いに訪れたときのことを、こう書き記している。
「耕書堂にも立ち寄ったが、病は全快していなかった」
大田南畝が『寝惚先生文集』で世に出たのは明和4(1767)年、19歳の時。蔦重と交流し始めたのは、天明元(1781)年に南畝が黄表紙評判記『菊寿草』を出した頃なので、2人は15年以上の付き合いということになる。



















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