これに対し栗山は「君子中庸。小人反中庸。【君子之中庸也、君子而時中。】小人之中庸也、小人而無忌憚也(君子は中庸す。小人は中庸に反す。【君子の中庸や、君子にして時に中す。】小人の中庸や、小人にして忌憚なきなり)」と返すが、これは『中庸』の言葉である。
同じように朱子の注釈書である『中庸章句』によって解釈すると、「中庸」とは「偏ることなく、過ぎることも足りないこともない、普遍的な本質である」とされる。要するに、どの時代、どの場所であっても変わらない原理(朱子学ではこれを「理」という)である。
それはたとえば、商売の本質はモノやサービスを媒介することで、人々の生活を豊かにして富を増やすことであり、原始的な商売と現代的なビジネスでも同じである。
したがって、時代の流行に惑わされず、いつも初心に立ち返ってビジネスを考えた方がうまくいく、というような原理である。それは、左と右のバランスをとってお茶を濁すというような、世間で言われる「中庸」では決してない。
完全な人格否定
また、【 】部分がドラマでは割愛されていたが、この箇所は「優れた人間性を持つ君子が中庸であるのは、原理原則を理解し、その時その時の状況に対応できる心があるからである」となる。
そして、「小人が中庸(に反する)のは、原理原則を知らず、目先の物事にひきずられて、安易に物事を理解したと思い込んで恐れを知らないからである」とされる。
つまり、栗山がこの言葉を持ち出すということは、「お宅のご主人は出版や娯楽の本質が何かも理解せず、時代の流行にのまれ、目先の欲にかられて物事を理解していると思っている。救いようのない人間ですな」と言っていることになる。完全な人格否定である。



















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