ていは、朱子学の理念にもとづいて厳罰を止めるよう訴える。一方の栗山も正統派朱子学者としてこれに応戦する。つまり、両者の背景には朱子学が存在する訳だが、ここで彼らの持ち出した『論語』『中庸』の言葉は、朱子学でどのように解説されているのか。
斬られても文句の言えない爆弾発言
まずていの持ち出した「道之以政、斉之以刑、民免而無恥。道之以徳、斉之以礼、有恥且格(之を道びくに政を以てし、之を斉ふるに刑を以てすれば、民免れて恥なし。之を道びくに徳を以てし、之を斉ふるに礼を以てすれば、恥ありて且つ格る)」は『論語』為政篇、第三章の言葉である。
これは孔子が政治について語ったもので、政治は「政」と「刑」で行うものではなく、「徳」と「礼」によって行うものだと述べている。では「政」と「刑」とは何か。この段階では実はよくわからない。
ここに朱子の注釈が入る。朱子は『論語集注』(注釈書)にて、「政」とは「法制禁令」のことであり、「刑」とは「刑罰」のこととする。すなわち、法令によって箍(たが)をはめ、刑罰によって懲戒するのである。
こうした政治は朱子によると「(人々は)表面上だけ規制をくぐり抜けて恥じることなく、悪を行わないとしても、悪を行う心は決して忘れることがない」。
次に「徳」は「経験して心に定着したもの」であり、優れた人間性を指す。「礼」は「立場とけじめ」であるとする。そうすると、上に立つ者が優れた人間性によって人々を導き、人々に立場とけじめを自覚させることこそ、政治だということになる。
朱子は「(上に立つ者が)みずから率先して立場と役割に徹すれば、民はやはり感動して立ち上がる」と述べているから、導くといっても率先垂範によって周囲を感化し、人々がそうしたいと思うようにさせることが大事なのである。
この章は、一見すると法令や刑罰に頼らないことを強調しているようだが、実際は政治家の人間性を問題視している。
つまり、この章を引くということは、「定信公が小手先の法令や刑罰に頼るというのは、率先して人々を感化することができず、人間性に欠落したところがあるんじゃないですか?」と言っていることになる。
当時であれば、その場で斬り殺されても文句の言えない爆弾発言である。



















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