
地道に売れる「往来物」も押さえていた
安永6(1777)年、蔦屋重三郎は、本格的に版元としての活動をスタートさせた。
それまでは、吉原大門口近くの茶屋の軒先を借りて「耕書堂」を経営していたが、近くに独立した店舗を構えることになったのである。重三郎が遊女評判記『一目千本』(ひとめせんぼん)で初めて独自に編集し出版までを行ってから、約3年の月日が経った頃のことだ。
安永9(1780)年になると、一気に15種もの書物を刊行している。独立して出版事業への意欲はさらに燃え上がったのだろう。うち3冊がヒットメーカー朋誠堂喜三二の作品だ。独立してまだ3年ばかりの版元としては、異例の注目を浴びていたに違いない。
蔦重がスタートダッシュをかけることができたのは、ヒット本をしかける一方で、地道に売れる刊行物も押さえていたからにほかならない。吉原のガイド本『吉原細見』がその一つだ。そして、もう一つ『往来物』(おうらいもの)を手がけたことも、耕書堂の経営を安定させたようだ。
「往来物」とは、寺子屋や家庭で用いられた学習書のこと。寺子屋は江戸時代における庶民の教育施設として広く知られているが、どんな教育が行われていたのだろうか。
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