「寺子屋」の起源は、鎌倉時代末期にまでさかのぼるとされている。鎌倉時代には「児」、室町時代には「童子」「少人」「垂髪」と呼ばれた子どもたちが、寺で初歩的な実用的な文字を学んだ。
しかし、江戸時代になると僧侶以外に、浪人、医師、村役人クラスの百姓や町人も、寺子屋の師匠として教えるようになり、おのずと場所も寺院だけに限定されなくなってきた。
江戸で「読み書き」が庶民も必要になった訳
そして、先生が変わり、場所が変われば、教育の対象となる生徒も変わる。江戸時代以前は寺子屋で学んだのは、主に武士および朝臣の子弟だった。だが、江戸時代からは「庶民の教育」として浸透し、広がりを見せることになる。
というのも、もはや戦乱の世は終わり、徳川幕府は実用的な書体「御家流(おいえりゅう)」を幕府制定の公用書体として用いた。百姓も学がなければ、高札や制札、公文書の内容を把握することができない。また、年貢の取り立てについても、算用ができなければ、不当に多く課せられる可能性がある。そのため、庶民も読み書きや算用が、生きるために必要となってきたのだ。
寺子屋が全国に普及し始めたのは享保7(1722)年頃からといわれている。慶応年間(1865~1868年)には全国で1万を超える寺子屋が設けられたという。
だが、実態はそれ以上だったようだ。寺子屋は読み書きに自信さえあれば、身分にかかわらず、開業することができた。しかも私立なので、寺子屋を始めるにあたって幕府の許可を得る必要もなかっただけに、実態がつかみにくい。
『江戸の教育力』 (高橋敏著、ちくま新書)では、 寺子屋について次のように書かれている。
「筆者のフィールドワークの体験から、最盛期には少なくも一村に一つか二つは存在したと考えられる。天保五年(一八三四)の総村数は六万三五六二である。この数字以上の膨大な寺子屋が大小さまざまに読み書き算用熱の時代の風にあおられて生まれた」
蔦重が出版人として飛躍した頃は、まさに寺子屋があちこちにでき始めたときに重なる。
蔦重は独立する少し前に、2代目豊前太夫の活躍で富本節が大ブームとなると、富本節の音曲の詞章を記した「正本」や、練習用に節付をした稽古本を次々と刊行。その機を逃さなかった。
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