
「手鎖50日」の処分が下された山東京伝
江戸のクリエーターたちにとって、冬の時代が訪れた。
天明7(1787)年、11代将軍・徳川家斉のもとで、老中首座に抜擢された松平定信は「寛政の改革」を断行。寛政2(1790)年には「出版統制令」(しゅっぱんとうせいれい)を発布している。
遊郭での遊びを描いた「好色本」を絶版したり、徳川家に関する記述を禁止したりする動きは、8代将軍の徳川吉宗の頃からあったが、定信はさらに出版規制を強化。幕政を批判したり、風紀を乱したりする書物については、その書き手まで処罰されることとなった。
ターゲットとなったのは、幕政を揶揄するものが多かった「黄表紙」(きびょうし)や、遊郭を舞台にした「洒落本」(しゃれぼん)である。
取り締まりが行われて、版元の蔦屋重三郎には、身上に応じた重過料(罰金刑)が科せられることになった。原因となった書物を書いた作者は「手鎖50日」(てじょうごじゅうにち)といって、鉄製の手錠をかけたまま自宅に50日間謹慎するという刑に処されている。
その作者とは、戯作者・山東京伝である。どんな人物だったのだろうか。
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