"問題作"を描いて処分「山東京伝」の凄い実力 大田南畝も絶賛、のちに小説や歌舞伎の世界にも影響を及ぼす

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大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎 山東京伝
山東京伝ゆかりの回向院(写真: Caito / PIXTA)
NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍した人物や、蔦重が手がけた出版物にスポットライトがあたっている。江戸時代後期の戯作者・山東京伝(さんとう・きょうでん)もその一人だ。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の第21回は、蔦重のもとでも数多くのヒット作を飛ばした山東京伝について解説する。

「手鎖50日」の処分が下された山東京伝

江戸のクリエーターたちにとって、冬の時代が訪れた。

天明7(1787)年、11代将軍・徳川家斉のもとで、老中首座に抜擢された松平定信は「寛政の改革」を断行。寛政2(1790)年には「出版統制令」(しゅっぱんとうせいれい)を発布している。

遊郭での遊びを描いた「好色本」を絶版したり、徳川家に関する記述を禁止したりする動きは、8代将軍の徳川吉宗の頃からあったが、定信はさらに出版規制を強化。幕政を批判したり、風紀を乱したりする書物については、その書き手まで処罰されることとなった。

ターゲットとなったのは、幕政を揶揄するものが多かった「黄表紙」(きびょうし)や、遊郭を舞台にした「洒落本」(しゃれぼん)である。

取り締まりが行われて、版元の蔦屋重三郎には、身上に応じた重過料(罰金刑)が科せられることになった。原因となった書物を書いた作者は「手鎖50日」(てじょうごじゅうにち)といって、鉄製の手錠をかけたまま自宅に50日間謹慎するという刑に処されている。

その作者とは、戯作者・山東京伝である。どんな人物だったのだろうか。

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