蔦屋重三郎"江戸のメディア王"になれた7大理由 みずからの「死後の繁栄」まで見据えていた

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吉原出身という出自も"蔦重"の強みの1つだったという(写真:barman/PIXTA)
企画編集・制作を行う版元でありながら、卸売問屋や小売りとして流通の末端にまで関わり、さらには広告や宣伝を含めた「総合メディアプロデューサー」としての顔を持っていたという"蔦重"こと蔦屋重三郎。
そんな蔦重が、吉原出身の一介の商人から、現代でいうところの「メディア王」にまで成り上がれた背景には、いったい何があったのでしょうか。「スタディサプリ」日本史講師の伊藤賀一氏が、その7つのポイントを解説します。
※本稿は、伊藤氏の著書『これ1冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化: 元祖・敏腕プロデューサーの生涯と江戸のアーティストたちの謎を解き明かす』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

みずからの「出身地」や「家庭事情」を逆手に取る

蔦屋重三郎は、現代社会では「ガチャ」と呼ばれるような、みずからは選べない偶発的要素を前向きに活かし、たくましく成り上がっていった人物だ。

まず彼は「吉原の遊郭で育った」という「出自」を活かした。吉原の出身ということから、「蔦重さんは、誰よりも公娼街に詳しい人間に違いない」と思われることで、遊女の案内書である吉原細見(よしわらさいけん)本の編集や出版に説得力が出る上、販路の拡大も容易であった。

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