家康の怒り沸騰「上杉方の直江状」その強烈な中身 日本史上有名な書状だが、一方で真偽は不明
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は家康による上杉家討伐の背景を解説する。
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慶長4年(1599)10月。豊臣秀吉亡きあとに、豊臣方の者たちを威圧するため大坂城に居座り続けた徳川家康は、加賀(金沢)の前田利長に「謀反の疑いあり」として圧力をかけ、屈服させた。
利長は家臣を大坂に派遣し、謀反の意志はないことを釈明。芳春院(利長の母)を江戸に人質として送ることにも応じざるをえなかった。
城下町を作ろうとしていた景勝
家康の次の狙いは、会津の上杉景勝を屈服させることであった。景勝は上杉謙信の養子であり、謙信亡き後、後継者争いに勝利し、越後・越中・佐渡を支配していた。また、豊臣政権の「五大老」の1人でもあり、慶長3年(1598)に国替えが行われ、会津若松城を居城としていた(会津120万石の大大名となった)。
秀吉亡き後の慶長4年(1599)9月には、景勝は大坂から会津に戻っていた。会津に戻った景勝は、領国の整備、神指城(会津若松市)の築城を計画。慶長5年(1600)3月から築城が開始され、一説によると8万人が工事に動員されたという。景勝は新たに城下町を作ろうとしていたのだ。
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