家康の怒り沸騰「上杉方の直江状」その強烈な中身 日本史上有名な書状だが、一方で真偽は不明
しかし、この行為は家康を刺激することになる。さらには、景勝の重臣・藤田信吉が上杉家から出奔し、江戸に走る事件も起きた。
信吉は江戸に行く最中、徳川家への奉公を誓い、家康は彼に対し、刀と銀を与えたのだが、それが上杉家中で非難の的となったのだ。
会津から逃亡した信吉は3月23日に江戸に入り、景勝に謀反の意志があることを、徳川秀忠に告げる。同年2月には、越後の堀秀治の家老(堀直政)からも、上杉謀反の情報が寄せられていた。
「牢人を召し抱えたこと」「大量の人夫を動員し、神指城を築城していること」「道路や橋の整備を行ったこと」「多量の馬・弓矢・鉄砲を準備していること」などが謀反の論拠とされた(堀氏は、これ以前にもたびたび、景勝の不穏な動きを報告していた)。
上杉氏の旧領・越後に入った堀氏は、年貢が上杉氏により持ち去られていることを知り、難渋していた。こうしたことも、堀氏が上杉氏のことを悪く報告した理由であろう。
前田利長と同盟を組んでいる噂も
さらには、上杉景勝は前田利長と同盟を結んでいるとの噂も流れていた。家康は上杉氏に警戒心を抱き、前田家同様、屈服させたいと願っていたと思われる。
謀反の噂が流れると、家康は景勝に何度も上洛を促した(家康はこの当時伏見にいることも多かった)。「謀反疑惑について問いただしたい」との考えや、国許に帰っていないで「五大老」としての職務を担ってもらうとの意向があったのだろう。
だが、景勝は上洛要請に応じようとはしなかった。家康は臨済宗の僧侶・西笑承兌に命じて、上洛を促す書状を書かせた。
その上杉方(重臣・直江兼続)からの返書が有名な「直江状」である。直江状には、次のようなことが記されていた。
「京都方面では種々の根拠なき噂が流れており、家康様が不審に思われているようですが、かような遠国であれば、嫌疑を受けるのはやむをえないこと。また、景勝は若輩者であり、謀反の噂が流れるのは当然。ご心配には及びません」
「国替えがあり、昨年9月に帰国したばかり。そしてまた上洛とあっては、国の仕置はいつすればよいのでしょうか」
「景勝に謀反心がないことは起請文を使わなくても申し上げられます。去年から数通の起請文が反故にされています。同じことをする必要はないでしょう」
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