フランス陸軍航空隊のエースとして活躍したバロン滋野、1932年ロス五輪で金メダルを取ったバロン西、大富豪で多くの芸術家のパトロンになったバロン薩摩など……。
そうそうたる名前を口々に発する編集部員たち。いつの間にか、吉元さんは感動していた。
「それで“バロン吉元”を受け入れました。ちなみにバロンでダメだったら、ドクロ吉元になる予定だったらしい。当時は酷い名前だなって思ったけど、今思えばドクロ吉元も、インパクトのあるすごいペンネームだと思いますよ。」
同じ時期、のちに『ルパン三世』を生み出すモンキー・パンチさんも、本名の加藤一彦から、清水さんによってペンネームを与えられている。バロンさんにとって、公私共に交流のあったモンキーさんは唯一の“同期”のような存在だと言う。
その後、清水さんは現在も続く「週刊漫画アクション」を創刊。初代編集長となり、水木しげるさんや石ノ森章太郎さん、小島剛夕さんら売れっ子作家を起用しつつも、二枚看板として、当時ほぼ無名であったバロンさんとモンキーさんを大々的に打ち出した。その後は、バロンさんの代表作である『柔侠伝』シリーズの他、『ルパン三世』『じゃりン子チエ』などのヒット作を世に送り出すことになる。
嫌いだった「ギャンブル」漫画を描くことに
バロンさんはバリバリと漫画を描いた。洋画に影響されたウエスタンものやスパイものなどのアクション作品をアメコミタッチで描いていたが、ある日担当編集者から
「社会的なものを描いてみないか」
と提案された。
そこでギャンブルをテーマに漫画を描くことになった。
「元々、作品にはリアリティが必要だからって、原稿執筆にあたっては取材して描いていたんです。例えば馬の話を描くときは、獣医さんを訪ねて『馬はどんな病気をするんですか?』って聞いたりね。蹄鉄の真ん中の皮膚の部分に釘が刺さって破傷風になることがあるらしいんだけど、そういうのを漫画にする。
ただ、ギャンブルは根本的にキライだった。パチンコくらいはやったけど、公営ギャンブル、麻雀、賭博は、人間をだめにするからと反対していた」
反対するバロンさんに清水編集長は言い返した。
「じゃあバロンは、競輪、競馬やったことあるの? 博打やったことあるの? ないのに、なんでそんなにはっきり言い切れるの? まずはやってみたら?」
「それもそうだな、と思って麻雀を覚えて、それから公営競技に。色々なギャンブルをひと通り体験しました」
そうして始まったのが、転機となったギャンブルシリーズ『賭博師たち』だった。(後編に続きます)
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