「当時は周りの人たちより、絵が下手だったと思います。正直、その時点ではプロの漫画家にはなれそうもないって感じてました。だからイラストを描いて出版社に持ち込んだりもしましが、それも門前払いでした。
ただ、劇画という新たなジャンルのもとに、沢山の才能がワッと集まり、花咲いた時代でした。俺も大学に行ってる場合じゃない。今、劇画の世界に飛び込まないと、後々絶対後悔するんじゃないかと思いました」
さいとう・たかを先生と出会い、劇画の世界へ
そんな折、新人賞を受賞して、出版社に初めての原稿料をもらいに行った。
たまたま同い年の男性も原稿料をもらいに来ていた。
「これから、さいとう・たかを先生のところに遊びに行くけど君も行く?」
と誘われ、バロンさんは
「ぜひ連れて行ってください!!」
と同行した。
「今思えば、さいとう先生と会ったのがキッカケでしたね。大学を2年の途中で中退して劇画の世界に飛び込みました」
当時から人気が高かったさいとう・たかをさんの下には既にアシスタントが揃っており、空きがなかったものの、同じく活躍していた漫画家・横山まさみちさんのアシスタントになることができた。
吉祥寺の学生寮を出て住み始めた練馬区桜台から、ほど近い場所に横山先生の自宅はあった。
「アシスタントというか、弟子でしたね。朝から晩まで働いて、『アシスタント代は出ないんですか?』って先生に聞くと、『何言ってるんだよ。吉元君は弟子なんだから、キミのほうが俺にお金を払うべきだよ』って(笑)。月に何千円かはもらってた気がするけど、それだけじゃ食えないからアルバイトを転々としてました。 キャバレーのボーイをやったり、喫茶店でウェイターをしたり。でもそのアルバイトが結構、漫画の糧に、ひいては人生の為になりました」
持ち込みをしながら、同時に長沢節さんのセツ・モードセミナーに通って、デッサンやファッションイラストを学びもした。また、かつて銀座に存在した洋書店「イエナ書店」へ行っては、海外作家の画集やコミックから大きな刺激を受けていた。
当時バロンさんが描いていたのは、アメコミタッチのアクションもの。出版社へ行っても「もっと売れる絵柄でないと」と門前払いの対応が続く中、双葉社に持ち込むと、当時「漫画ストーリー」の編集長を務めていた清水文人さんが会ってくれた。
「私の絵を見て『あ、これだ。16枚描いてこいよ』って言ったんです。実績がない私に、何も言わずにすんなりと16枚も採用してくれて、ビックリですよ」
しかし、ある日、送られてきた雑誌を見ると、ペンネームがそれまで使用してきた本名の“吉元正”から“バロン吉元”になっていた。
「びっくりしましたよ。本当に頭にきたもんだから、すぐに編集部へ怒鳴りこんだんです。人の名前を勝手に変えるんじゃねえよ!! って」
バロンさんはまくしたてたが、清水さんは冷静になって
「ちょっと待て。バロンの意味は知っているのか?」
と聞いた。知らないと答えると、
「バロンとは男爵の意味で、日本で言うところの侍大将クラスなんだぞ。日本には非常に有名な男爵がいたんだ」
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