家でも裕福な暮らしをしていたので、戦時中に苦労した思い出は実は余りないんです。大きな箱に沢山のおもちゃが入っていたことも覚えています。父が大切にしていたピカピカの拳銃を、こっそりと抱いて寝たこともあります」
戦争が終わり、父親は当局に銃火器隠匿の容疑で逮捕されてしまった。捜査の途中で、父の友人たちに助けられ貨車に乗り込み、大連まで逃げた。
「引揚者の中でも、私たち家族は本当にギリギリのタイミングだった。父と母は手に持てるだけの荷物を持って、私はまだ小さな弟の手をひいて……私もまだ十分幼い未就学児でしたが。弟と双子の妹がいたのですが、彼女は既に亡くなっていました。手元に彼女が生まれたばかりの頃に撮られた写真は残っていますが、一緒に過ごした記憶は残念ながらありません。
あと少しで取り残される、間一髪のタイミングでなんとか間に合って列車に乗ることができました。でも石炭を運ぶような天蓋のない貨車です。途中天気が悪くなって雹(ひょう)が振ってきたんですよ。かぼちゃに穴が空くくらいの大きな雹です。同じく貨車に乗っていた乗客みんなで毛布を広げて雹を防いだのを覚えてますね。ずいぶんと長い間乗車していました。
日本までは輸送船の船底に詰め込まれて行くんだけど、人数が多すぎて常に酸欠状態なんです。あと油の臭いと糞尿の臭いと海水の臭いが入り混じって充満してる。外の空気が吸いたくてデッキに出ようと階段を上るんだけど、力尽きて下まで落ちて、頭を強くうったことを覚えています。食べ物は何が入ってるかよくわからない雑炊で、食べては吐いて、食べては吐いて、を繰り返してました。でも、そういうのも冒険の1つ、遊びの1つとして捉えて、楽しんでましたね。本当はギリギリの状況でしたけど……」
漫画家なんて夢にも思っていなかった
日本へ帰国したあとは、両親の故郷である鹿児島県の指宿市に住むことになった。
海岸に建てられた建物やコンクリート塀には、米軍のグラマン戦闘機の機銃掃射による弾痕が至る所に生々しく残っていた。
「日本に帰ってきても、冒険ごっこばかり真剣にしてました。友人の影響で漫画も描き始めてはいましたが、主に当時の映画スターや古い人気漫画のキャラクターの似顔絵を描いていました。『冒険ダン吉』とか『蛸の八ちゃん』など」
バロンさんの友人に貸本屋の息子がいて、彼は漫画を描く帳面を作っていた。
当時のバロンさんよりずっと上手くて、ショックを受けた。
「それから意識して描くようになりましたけど……。それでも『漫画家になろう』とかそういう気持ちは全然なかったんですよ。なれるわけがない。そんなの夢にも思えなかった。本当に、読むだけ、楽しむだけでした」
中学になっても冒険ごっこが大好きだった。山に行き、海に行き、暴れまくっていた。家のばあやにターザンのフンドシを作ってもらって、自慢するように海水浴をしていた。だが、ある日休み時間に友達を誘っても、乗ってこなくなった。
「何やってるんだよ! バカヤロウ!!」
と言うと、
「お前こそ何やってんだよ!! バカタレ!」
と返された。
「みんな高校受験の勉強を始めてたんです。高校へ行くのに受験があるなんてそもそも知りませんでした。焦るよりも、みんなが遊んでくれなくなったのが悲しくてね……」
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