83歳「伝説の漫画家」の超エネルギッシュな人生 50年代末から活躍、「バロン吉元」のこれまで

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当時、バロンさんの実家は農業、林業、漁業、温泉宿、よろず屋と5つの商売をやっていた。小さい頃から家業を手伝って忙しかった。

温泉宿では、テキ屋、大道芸人、ガマの油売り、占い師、訳アリのカップルなど色々な人に出会った。彼らとの交流は生活の一部であり、時には大人の世界の厳しさも教えられた。

「だから中学を卒業したら進学しないで働こうと思っていたんですよ。でも、親のすすめもあって一夜漬けみたいに勉強して、木材工芸科のある高校(鹿児島県立指宿高等学校)に進学できちゃった」

バロンさんが高1の時、集団就職で横浜の造船所に勤めている友人が正月に帰省していた。スーツをキッチリ着込んで、ポマードでオールバックにしている姿は、ピカピカと輝いて見えた。

「俺も高校辞めて就職するぞ!! って思って本気で親に訴えました。横浜の造船所で働くぞって」

本人は造船所で働くことに決めていたが、ちょうどその頃、日本大学の芸術学部と武蔵野美術大学を卒業した2人の先輩が、吉元さんの両親を訪ねていた。

バロンさん自身はあまり覚えていないが、バロンさんの描く絵はかなり高く評価されていた。県展のコンテストに出され入選もしていた。

2人の先輩は、

「吉元正くんが卒業したら、就職させないでください。絶対に美術学校へ進学させるべきです」

と両親を説得していた。

「美術大学に進学するなんて考えてもいませんでした。就職せずに進学するなら船員学校がいいと思っていたんです。船に乗るのが好きで、船員になり、色々な国へ行ってみたかった。創作を仕事にすることは全然考えてなかった」

中学からずっと柔道部だったが、先輩が訪ねてきたのをきっかけに美術部にも入った。富岡鉄斎やミケランジェロの画集をよく図書室で広げながら、「漫画家は難しくても、挿絵画家だったらなれるかもしれない」と思い始めていたのもこの頃だった。

武蔵野美術大学に進学

先輩の見る目は正しく、吉元さんは現役で武蔵野美術大学西洋画科に進学した。当時の美術大学は今とは比較できないほど高倍率だった。

鹿児島から東京まで、ブルートレインで1日以上かけて上京し臨んだ入学式には学ラン姿に下駄を履いて出たものの、周りの同級生が皆スーツやフォーマルな格好をしていたことに驚いた。

武蔵野美術大学は、当時は東京の武蔵野市吉祥寺に本校があったため、吉祥寺の学生寮に住むようになった。

「寮生活は楽しかったですね。長い流し台でみんなで自炊をして。『お前んところのおかずはなんだ?』とか会話しながら、おかずを交換したりして……」

(筆者撮影)

しかし学生生活は長くは続かなかった。当時は多くの教員が抽象画に傾倒しており、それに関心を持つことができなかった。

一方、時期を同じくして漫画界では辰巳ヨシヒロさんや、さいとう・たかをさんらが中心となった「劇画工房」が結成され、新たな漫画表現「劇画」が誕生。様々な貸本投稿誌において新人漫画家を募集をしていた。バロンさんも同世代が描いた劇画に激しく触発され、オリジナルの作品を描いて応募、入選した。

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