家康による直政への信頼は厚く、24歳のころには家康の養女を妻に迎えます。翌年、天下人直前の豊臣秀吉と家康のただ一度の直接対決「小牧・長久手の戦い」では、赤備えの部隊を率いる直政が華々しい武功をあげます。
直政は、小柄で優しい顔つきの人物だったそうですが、赤備えに派手な形の兜をかぶり、部隊の先頭で敵を蹴散らす姿から「井伊の赤鬼」の異名で呼ばれ、徳川家中でその人ありという存在になりました。
家康が秀吉の臣下になってからは、その才能を秀吉からも認められ、徳川家の家臣でありながらも豊臣姓を与えられるなど厚遇を受けます。これはどうやら、秀吉の引き抜き工作であったようですが、直政はその誘いに乗ることはありませんでした。
直政、関ヶ原の戦いから死去まで
豊臣政権下において、天下統一の最後の仕上げとなった「小田原征伐」においても、直政は夜襲をかけて小田原城内まで攻め込むなど抜群の功績をあげました。そして天下人である秀吉が亡くなると、さっそく外交手腕を発揮し、次々と豊臣方の武将を徳川方に引き入れます。なかでも黒田長政とは互いに盟約を結ぶまでの仲になりました。
天下分け目の「関ヶ原の戦い」では、家康の息子であり直政にとっては娘婿である松平忠吉を補佐し先陣を切ります。この戦いは激戦だったものの、石田三成率いる西軍が総崩れとなり、勝敗は半日で決しました。
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