この崩壊する西軍で、異例の撤退戦に挑んだ軍がありました。それは島津軍です。島津義弘率いる島津軍は、ほとんど合戦に参加していなかったのですが、撤退においてなんと東軍の真っ只中を突っ切るという敵中突破策に出ます。この島津軍を追撃したのが直政でした。直政は、義弘の甥で殿(しんがり)を引き受けた島津の猛将・島津豊久を討ち取ります。
直政は一気に義弘も討ち取るべく猛追しますが、あまりに単騎で突出したため、そこを島津の狙撃兵に狙い撃ちされて足に大きな傷を負ってしまいます。義弘は、追いすがる東軍を振り切り、この決死の撤退を成功させました。
冷静な外交官として戦後処理
直政の不思議なところは、この関ヶ原の戦い後に島津家の和平交渉をまとめあげたことです。戦場で命のやり取りをした相手だったとしても、合戦が終われば外交官として冷静に対処できる。それは直政が家康に認められた要因でもあります。
関ヶ原の戦いのあと直政は、おもに敗れた西軍側に立って戦後処理を行います。島津との和平だけではなく真田昌幸・信繁親子についても、昌幸の長男で本多忠勝の娘婿である真田信之の立場を慮り、忠勝とともに家康に助命を働きかけました。長宗我部盛親についても謝罪の取次を行います。
直政は戦場では比類なき勇将でありながらも、外交官としてはバランス感覚に優れた人物でした。家康は関ヶ原の戦いでの功を讃え、石田三成の旧領を与えて18万石の大名の地位を与えます。これは最大級の評価でした。しかし直政は関ヶ原で受けた傷がたたり、関ヶ原の戦いから2年後の1602年に亡くなりました。
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