しかし義昭は、この信長の申し出を拒絶。その背景には武田信玄の存在があります。信玄は、この頃には義昭と気脈を通じていました。これには徳川家康が絡んでいます。
信玄は先年、今川領を巡って家康と対立していました。家康は、信玄が約束していた今川領の攻め口を破ったことに腹を立て、武田との盟約を打ち切って今川、北条と結び武田包囲網を張ります。このことに激しく怒った信玄は、三河・遠江攻めを決めます。必然的に徳川と同盟を結んでいる織田とも手切れになりました。
信玄としては、この際、織田も攻め滅ぼそうと考えたのでしょう。そのためには将軍である義昭を引き込み、上杉や北条などを将軍の権威によって抑え込もうとしたのだと思われます。
信玄の死が義昭の戦略を狂わせる
義昭は、信玄という後ろ盾を得て信長に強気に出たわけですが、肝心の信玄が亡くなってしまいました。かつて、いとこである14代将軍・義栄の突然の病死によってチャンスを掴んだ義昭が、今度は頼みの信玄の突然の死によって暗転するわけです。
さすがの信長も、もはや義昭の利用価値を捨て厳しい態度で挑みます。結果的に義昭は、兄の仇である三好義継を頼り、そののち毛利家に身を寄せました。
ただ義昭は自分の利用価値を高く見ており、京を追われてからも、各地の勢力にさまざまな働きかけを行います。実際のところ義昭の外交能力は高く、信長包囲網を形成していきました。
一方の信長は「室町幕府」という権威を義昭の離反によって失い、権力の正当性を失います。結果的に「武力」でごり押しするほかなくなり、四面楚歌の状況が続くことに。
それでも信長は、武力で包囲網をひとつずつ突破していきました。これは信長の実力もありますが、武田信玄や上杉謙信などの強力なライバルが相次いで病死したことが追い風となってのこと。その幸運も、腹心である明智光秀の謀叛という形で幕を閉じることになります。
信長の死は、義昭の政治的な死も意味しました。信長の死後、義昭は柴田勝家に味方をしましたが、勝家が敗れると、勝家を打ち破った羽柴秀吉に屈します。
秀吉は、義昭に対して自分を養子にすることを要望しました。これは秀吉が足利秀吉となり将軍になることを意味しますが、義昭はこれを拒否。秀吉は、関白の地位につき、朝廷の最高権力者となることで新しい政治体制を築きます。
ここで室町幕府は消滅し、義昭の歴史的な役割も終わりました。
足利義昭と織田信長は、見方を変えれば室町幕府の幕を引くためのダブル主演だったのかもしれません。ちなみに義昭の孫はふたりとも仏門に入ったため、義昭の血脈はここに絶えました。
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