三好勢の最大の痛手は、義栄が将軍就任からわずか1年もたたないうちに病死してしまったことです。このため将軍の座は空位となり、義昭にとっては、天皇から将軍に任命される「将軍宣下」への障害がなくなりました。朝廷への献金ができずに一度は宣下が流れてしまった義栄と違い、義昭のバックには信長が。この信長が朝廷の根回しも行い、義昭は無事に室町幕府第15代将軍の座につきました。
なぜ戦国武将は京を目指したのか
「京に旗を立てる」
これは戦国時代の武将の野望をあらわす表現として使われますが、どういう意味なのでしょうか。
単に京に軍を進めるだけでは、実は意味はありません。「京に旗を立てる」の真の意味は、室町幕府の実力者として権勢をふるうこと。あくまでも、幕府という公的機関の最高実力者の座につくということです。
最初の幕府は源頼朝が開いた鎌倉幕府で、その最高位である将軍の座は、すぐに「お飾り」になって北条氏が執権という形で権力を握ります。その鎌倉幕府を倒した足利尊氏は自身が将軍の座につき、幕府を京で開きますが、室町幕府は尊氏が将軍の座にいるときから激しい権力争いが続いていました。飛びぬけたカリスマであった第3代将軍・義満を除く、ほとんどの将軍は権力争いの渦に巻き込まれ、実質的な権力者ではありませんでした。
応仁の乱のあたりでは、その権力争いが混乱の極みとなっていましたが、それでも武士たちにとっては「幕府」という公的な機関は権力の礎であり、これを破壊することよりも幕府内で権力を握ることのほうが重要でした。それは信長も同じで、かの有名な「天下布武」も、その意味は「武をもって室町幕府を再興する」だったと言われています。
信長の前は、足利義輝を殺した三好三人衆の主である三好長慶が、その座にありました。この三好長慶に代わり、信長は幕府の実権を握ろうとします。新しい幕府もしくは新しい政治体制をつくるより、既存の権力基盤を利用したほうが抵抗も少なくすむと考えたわけです。
そして当時の武士たちの間では、もはや将軍は単なる権力の象徴にしか過ぎなかったので、自分の思い通りになる将軍を誰が握るかが最重要でした。その意味で、足利義昭は都合のよい人物だったわけです。
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