ああ おもしろい 虫のこえ
リンリンと鈴虫の鳴き声を聞くと、秋が来たなと思う。
だが、この感覚は独特のもので、虫の鳴き声は、日本人とポリネシア人以外には、ただの雑音と認識されるという。
一説によると、日本人とポリネシア人は、どちらもモンゴルから南下した民族だと言われている。ポリネシア人の言語の一つであるサモア語の発音は、日本語とよく似ている。母音はアイウエオの五音で、単語は子音と母音、または母音単独で表現されるという。
日本語にはさらに、擬音語・擬態語という表現がある。
「サラサラと流れる川」「ビュービューと吹く風」「シンシンと降る雪」「カンカンと照る太陽」など、情景を想像させる言葉である。
それは現代の漫画にも生かされている。日本の漫画には、セリフ以外に様々な表現が用いられている。例えば、「ズバーン」「ドーン」「スルスル」「シーン」などである。
日本の漫画は、日本人特有の感覚を「文字化」することによって、場面の臨場感を盛り上げている。
そんな表現がそのまま歌詞に使われている有名な唱歌がある。
あれ 松虫が鳴いている
チンチロチンチロ チンチロリン
あれ 鈴虫も鳴き出した
リンリンリンリン リインリン
ある日の夕方……。
この「虫のこえ」を、時田ミキが大声で熱唱していた。今日、学校で覚えてきた歌を父である時田流に聞かせたくて張り切っているのだろう、顔を真っ赤にして歌っている。だが、あまりに大声な上に、所々、正しくない音階で聞かされている流の眉間には深いしわがより、極端なへの字口になっている。
秋の夜長を鳴き通す
ああ おもしろい 虫のこえ
歌が終わると、拍手とともに「うまい、うまい」と囃し立てたのは、木嶋京子である。京子は、カウンター席に腰掛けて、ミキの歌に聞き入っていた。ミキは、京子にほめられるとニンマリ得意げな笑顔を見せて、
「あれ、松虫が……」
と、再び歌いはじめた。
「わかった、わかった……」
そう言って、ミキの歌を必死に止めたのは流だった。実は、もうすでに三回も聞かされていて、さすがにうんざりしていたのだ。
「わかったから、とにかくランドセルを置いてきなさい」
流はカウンターの上に置かれたランドセルを取り上げ、ミキに差し出しながら言った。ミキは、京子にほめてもらって満足していたのだろう、「はーい」と素直に返事をして、奥の部屋に姿を消した。
チンチロチンチロ チンチロリン
歌うミキと入れ替わるように、この店のウエイトレスである時田数が姿を現し、「秋ですね」と京子に向かってつぶやいた。
どうやら、ミキの歌声がこの季節感のない喫茶店に秋の到来を知らせてくれたようである。
カランコロン。
カウベルの音とともに入ってきたのは神田署の老刑事、万田清だった。
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