3カ月前に逝った母、30代の息子が戻りたい過去 小説「この嘘がばれないうちに」第2話全公開(2)

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高齢女性の後ろ姿
あの日の母にどうしても会いたくて(写真:zon/PIXTA)
世界35カ国で翻訳、シリーズ320万部を突破している小説『コーヒーが冷めないうちに』。世界中で話題のシリーズを東洋経済オンライン限定の試し読みとして16日に分けて配信。シリーズ2作目『この嘘がばれないうちに』の第2話『親子』の第2回をお届けします。
(1):母を亡くした娘がなじみの喫茶店でハッとした事(1月3日配信)

 この喫茶店には「過去に戻れる」という噂がある

「幸雄には入院のこと知らせてなかったのよ。母に口止めされてたから……」

京子はそう言ってグラスに手をのばし、数センチ持ち上げたが、口はつけずゆっくりとゆらしはじめた。

「だから、あの子、怒ってるんじゃないかな? 葬儀にも顔出さなかったし?」

京子の視線は、グラスが傾いても水平を保つ水面に注がれている。

「携帯も通じなくなっちゃったし……」

事実、幸雄とは一切連絡が取れなくなっていた。何度電話をかけても「おかけになった電話番号は現在使われておりません」という、解約後のアナウンスが流れるようになっていた。勤めていた窯元にも連絡してみたが、数日前に辞めてしまって、どこにいるかは誰も知らないという。

「いま、どこで、何をしているのかもわからないのよ……」

京子は、幸雄に絹代の入院を知らせなかったことで、この一か月、(自分が同じことをされたら、怒りに我を忘れて何をしでかすかわからない)と思い悩んで眠れない日々が続いていた。

この喫茶店には「過去に戻れる」という噂がある。もちろん、京子も過去に戻りたくてやってきた客を目にしていたが、まさか、自分が過去に戻ってやり直したいと思うような出来事に遭遇するとは思ってもいなかった。

しかし、しかしである。京子は、やり直したいとは思ったが、やり直しができないこともよく知っていた。

なぜなら、たとえ、京子が過去に戻ったとしても、

過去に戻ってどんな努力をしようとも、現実を変えることはできない

というルールがある。

仮に、絹代が入院した日に戻って幸雄に手紙を書いたとしても、このルールがある以上、出した手紙は幸雄には届かない。仮に届いたとしても、何らかの理由で幸雄の眼に触れることはなく、その結果、幸雄は入院していたことを知らずに絹代の訃報を聞くことになり、葬儀に姿を現すことはない。そういうルールだからだ。つまり、京子が過去に戻っても、現実を変えることはできない。それなら、過去に戻る意味などないということになる。

「母が幸雄に心配をかけたくなかったという気持ちはよくわかるのよ……」

しかし、その思いが京子を板挟みにして苦しめることになってしまったのだ。

「でも……」

京子は両手で顔を覆い、肩を震わせた。数は、仕事の手を止めることはなかったが、だからと言って京子に話しかけることもしなかった。ただ、時間だけが静かに流れた。

あれ おとうさん やーってきて

ぷ ぷ ぷ ぷ 屁こき虫

秋の夜長を鳴き通す

ああ おもしろい 虫のこえ

奥の部屋からもれてくる、ミキの替え歌はおかしな歌詞になっていたが、店内に再び京子の笑い声が響くことはなかった。

その日の夜……。

店内には数が一人、いや、正確には、数と白いワンピースを着た女の二人がいた。

数は片づけを、ワンピースの女は相変わらず静かに小説を読んでいる。そろそろ読み終える頃なのだろう、左手で押さえているページは残り少ない。

数は、閉店後のこの時間が好きだった。特に片づけや、掃除が好きというわけではない。何も考えず、ただ、黙々とする作業が好きなのだ。

数にとって絵を描く作業も同じだった。数は、目に見えるものを鉛筆一本で本物の写真のように描いていくのが得意で、超写実主義(ハイパーリアリズム)という技法を好んだ。しかも、実際に見たものしか描かず、想像や、ありもしない架空のものを描くことはない。そこに数個人の感情は何も入らないのだ。ただ、ただ、見たものを何も考えず、カンヴァスに描き写すという作業が好きだった。

パタリ。

ワンピースの女が小説を読み終え、静まり返る店内に本を閉じる音が響いた。

次ページ数はカウンターの下から一冊の小説を取り出し…
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