男は数がいなくなると、大きなため息をつき、セピア色に染まる店内を見回しはじめた。薄明かりのシェードランプ、天井でゆっくり回るシーリングファン。時間のちぐはぐな三台の大きな柱時計、そして、店の片隅で小説を読む白いワンピースを着た女。
男は数が戻って来ると、
「あの……、彼女が、幽霊だというのは、本当ですか?」
と、唐突に質問を投げかけた。
「ええ」
突拍子もない質問をする男も男だが、さらりと答える数も数である。しかし、この喫茶店の噂を聞きつけて興味本位で来る客は多い。数にとっては慣れたこと、挨拶と同じ感覚なのだ。
「そうですか……」
男はつまらなそうに返事をし、数は男の前でコーヒーを淹れる準備を始めた。
数は普段、サイフォンを使ってコーヒーを淹れることが多い。サイフォンで淹れるコーヒーは、沸いたお湯が、コポコポと下のフラスコから漏斗へと上がり、コーヒーとなって落ちるのが特徴である。数はサイフォンのこの光景を眺めるのが好きだった。
だが、なぜか今日に限ってはサイフォンではなく、コーヒードリッパーのセットを一式持ってキッチンから戻ってきた。ミルまで持ち出しているからには、豆も挽くつもりなのだろう。
ドリッパーを使った淹れ方は、この店のマスターの流が得意としている。ドリッパーにフィルターをセットし、ゆっくりと粉を蒸らして、少しずつコーヒーを抽出する。 数は普段、面倒だからと言ってドリッパーでコーヒーを淹れることはなかった。
数が静かに豆を挽きだした。会話はない。男は数が何も喋らないので、少し気まずそうに頭をかいているだけだった。自分から何かを話しかけるような明るい性格ではないらしい。
しばらくすると、コーヒーの香ばしい薫りが漂って来た。
「お待たせしました」
数がゆらりと湯気の立つコーヒーを男の前に差し出す。
「……」
男は無言でカップを見つめたまま、しばらくストップモーションのように動かなかった。数は手慣れた手つきで手元の道具を片づけはじめた。
シンと静まり返る店内で、ワンピースの女が小説のページをめくる音だけが聞こえる。
しばらくして、男がカップに手を伸ばした。コーヒー好きの客なら、ここで薫りを鼻から胸いっぱいに吸い込むところだが、男は表情一つ変えることなく無造作にズズッとコーヒーをすすりあげた。
コーヒーの名前に驚いたのではない
「……これは」
これまで、あまり表情に変化のなかった男ではあったが、出されたコーヒーの酸味に驚いたのだろう、眉間にしわを寄せ、唸るようにつぶやいた。
男の口にしたコーヒーはモカという種類で、薫りは良いが、その酸味の強さが特徴的である。その味に惚れ込んだ流のこだわりで、この喫茶店ではモカしか出さない。しかし、普段コーヒーを好んで飲まない者にとっては、モカやキリマンジャロだけで淹れたコーヒーの味は個性が強く、この男のように戸惑うことも少なくない。
コーヒーの名前はほぼ産地に由来する。モカはイエメンにかつてあったモカ港から積み出された、イエメンとエチオピアの豆、キリマンジャロはタンザニア産の豆である。流はエチオピア産の豆を好んで使っているのだが、その強い酸味を好む人物もいた。
「絹代先生の好きだったモカ・ハラーです」
数がそう伝えると、男は「え?」と声をもらし、険しい表情で数を見た。
もちろん、このコーヒーの名前に驚いたのではない。自分が名乗ってもいないのに、初対面の店員が絹代の名前を出したことに驚いたのだ。
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