陶芸家になるためには、大きく分けると、美術系の大学や専門学校へ行って習うか、陶芸家のところへ弟子入りして働きながら学ぶという二つの道がある。
幸雄は専門学校に行くのではなく、京都の桂山㟁の下に弟子入りしたいと考えた。番組の中で桂山㟁が言っていた、
「一流になるには一流に触れなければならない」
という言葉が好きだったからだ。
だが、陶芸家になりたいと父の政一に相談すると、
「何千、何万の人間が目指しても、本当に陶芸家として飯が食えるようになるのは一握りの才能のある人間だけだ。お前にそんな才能があるとは思えない」
と反対されてしまった。
だが、幸雄はあきらめられなかった。しかし大学や専門学校に行くとなれば、学費などで家族に金銭的な負担をかけることになる。幸雄は自分のわがままのために家族に迷惑をかけたくないという理由で、住み込みで働きながら陶芸家を目指すことにした。政一は反対したが、最後は絹代が説得してくれて、高校卒業後すぐに、京都に行くこととなった。
選んだ窯元は、もちろん、桂山㟁のいるところである。
京都に発つ日、新幹線の駅のホームまで絹代と京子が見送りに来た。
絹代は、「少ないけど……」と言って、幸雄に自分の印鑑と通帳をそっと手渡した。幸雄は、そのお金は絹代が「いつか、お父さんと海外旅行に行きたい」と言って、コツコツと貯めていたものだと知っていた。
「それはもらえないよ」と断ったが、絹代は「持ってて困るものじゃないから」とゆずらない。新幹線の発車のベルが鳴って、幸雄は仕方なく印鑑と通帳を受け取ると小さく頭を下げ、京都に旅立った。
その後、京子に「母さん、そろそろ帰ろ」と声をかけられても、絹代は、しばらくホームに立ったまま、見えなくなった新幹線の方を見つめていた。
「過去に戻ってどんな努力をしても、現実を変えることはできませんよ?」
数は、いつものルール説明を始めた。とくに、会いたい相手が亡くなっている場合、このルールは必ず伝えておかなければならない。
死別。
それは突然やってくる。入院を知らされていなかった幸雄にとって、絹代との別れは、まさに突然突きつけられたものだった。だが、幸雄はどうやらこのルールも知っていたようで、少しも表情を変えることなく、
「わかっています」
と答えた。
絹代が亡くなるという事実が変わることはない
絹代の癌が見つかったのは今年の春だった。そのとき、すでに末期と診断され、余命は半年と言われていた。医師は、あと三か月早く発見できていればなんとかなったかもしれないと、京子に告げた。
だが、現実は変わらないというルールがある限り、たとえ過去に戻って早く発見できるように努力をしても、絹代が亡くなるという事実が変わることはない。
数は、幸雄がある程度のルールを絹代から聞いて知っているとは思ったが、
「この喫茶店のルールについて、簡単に説明しておいた方がよろしいですか?」
と尋ねた。幸雄は一瞬考えたが、
「お願いします」
と、小さな声で答えた。
数は仕事の手を止めて、ルールの説明を始めた。
(1月5日配信の次回に続く)
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