男の名前は三田幸雄。陶芸家を目指している絹代の息子で、京子の弟である。
絹代は昔からこの喫茶店の常連客だったが、幸雄は今日まで一度も来たことはない。車で十五分という近所に住んでいる京子でさえ、頻繁に顔を出すようになったのは、絹代が入院して、ここのコーヒーを買いに来るようになってからである。
幸雄は怪訝そうな表情で数をにらみつけていたが、数は幸雄の視線などおかまいなしに、
(お待ちしておりました)
とでも言っているかのように、静かにほほえんだ。
「いつ……」
幸雄はそうつぶやくと、頭をかきながら、
「……わたしが、母の息子だとわかったんですか?」
と尋ねた。べつに自分の正体を隠そうとしていたわけではないにせよ、気にはなったのだろう。数は、コーヒーミルの掃除をしながら、
「顔が似ていましたので……」
と答えた。
幸雄は戸惑ったように自分の顔を手でなでた。そんなことを言われたのは初めてだったのか、まだ腑に落ちていない表情をしている。
「偶然かもしれませんが、昼間、京子さんも見えていて、あなたのことが話題になりました。なので、勘というか、もしかしたらと思って……」
「わたしを過去に戻らせてください」
数の説明を聞いた幸雄は、
「そうですか……」
と、一瞬、目を逸らしてから、
「三田幸雄です」
と名乗って頭を下げた。
数も軽く会釈し、
「時田数です」
と返す。
幸雄は数の名前を聞いて、
「あなたのことは母から手紙で伺っていました。あと、この喫茶店の噂も……」
とつぶやいて、ワンピースの女に視線を走らせた。
幸雄はゴクリと喉を鳴らし、カウンター席から立ち上がると、
「お願いします。わたしを過去に、母がまだ生きていたときに戻らせてください」
と言って、小さく頭を下げた。
幸雄は子供の頃から真面目で、ひとつのことをコツコツ続けるタイプだった。与えられた仕事は、誰も見ていなくてもサボるということはしない。たとえば小学校の掃除の時間では、みんなが遊んでいても、一人、黙々と掃除を続けた。
性格は温和で、誰に対しても優しかった。小・中・高校と一貫してクラスではおとなしい集団に属していたので、目立つ生徒ではない。平凡を絵に描いたような少年だった。
そんな幸雄に転機が訪れたのは、高校の修学旅行でのことだった。
修学旅行先の京都で、伝統工芸を体験するという課題があり、幸雄は陶芸、扇子、印鑑、竹細工の中から陶芸を選んだ。轆轤を回すのは初めてではあったが、幸雄の作品は他の生徒のものと比べると、群を抜いて形が整っていた。体験教室の先生に「初めてでこんなに綺麗に形にできる子は見たことない。才能がある」とまで言われた。
幸雄にとって、それまで経験したことのない称賛の言葉だった。
幸雄は、この修学旅行の体験で、ぼんやりと陶芸家になりたいと思いはじめた。
だが、具体的にどうすれば陶芸家になれるのかがわからない。修学旅行から戻っても、悶々とする日々が続いた。
そんなある日、テレビで桂山㟁という陶芸家が「陶芸家になって四十年目にして、やっと納得のいくものができた」と言って作品を紹介しているのを見て、幸雄は衝撃を受けた。
平々凡々の人生に不満があるわけではなかったが、心のどこかで、
(一生を費やすに価する仕事を見つけたい)
という思いが幸雄にはあったのだ。桂山㟁は、幸雄にとって目指すべき、憧れの存在となった。
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