女は小説をテーブルの片隅に置き、コーヒーカップに手をのばす。その様子を見て、数はカウンターの下から一冊の小説を取り出し、女の前に進み出た。
「これは、ひょっとしたら好みじゃないかも……」
数はそう言って、女の前にその本を差し出し、テーブルの上の本を回収した。
おそらく、これまで何度もくり返されてきたことなのだろう、その動き自体は手馴れた作業のように見える。だが、数の表情はいつものような冷めたものではない。大好きな人に喜んでもらいたくて、選びに選んだプレゼントを渡す前のような、そんな表情である。
相手の喜ぶ顔が見たい。
プレゼントを贈る側として、それはごく自然な感情である。喜んでもらえるようにと、相手の反応を想像しながらプレゼントを選んでいると、あっという間に時間が過ぎてしまう。
ワンピースの女が小説を読むペースはそれほど速くはない。一日中、小説を読んでいるだけなのに、二日で一冊を読み終える程度である。
彼女のために、数は週に一度は図書館に行って小説を選んで借りてくる。プレゼントをしているわけではないが、数にとって、ワンピースの女に小説を届けることは、ただの“作業”ではなかった。
数年前まで、ワンピースの女は『恋人』というタイトルの小説をくり返し、くり返し読んでいた。数がこうやって小説を届けるようになったのは、ミキが「同じ本ばっかり、飽きないのかな?」と言って、ワンピースの女に自分の絵本を差し出しているのを見たことがきっかけだった。
(せめて、自分が選んだ小説で喜んでくれるのなら……)
だが、女はそんな数の想いに気付くことはなく、差し出された小説に手をのばし、黙ったまま、最初のページに目を落とした。
「……」
砂時計の砂が音もなく落ちていくように、数の表情から「期待」という感情が消えていく。
カランコロン。
三十代後半に見える、浅黒い顔の男
閉店時刻を過ぎ、「closed」の看板も出しているはずなのにカウベルが鳴った。だが、数は(こんな時間に一体誰?)とは思わない。あわてる様子も見せずに、ゆっくりと入口に視線を走らせながら、カウンターの中に戻った。
入ってきたのは、三十代後半に見える、浅黒い顔の男だった。黒のVネックシャツに濃い茶色のジャケット、同色のパンツに黒い靴という格好で、ぼんやりと店内を見渡している。その表情には、まったく生気が感じられなかった。
「いらっしゃいませ」
男は数に声をかけられると、
「もう、終わりですよね?」
と、弱々しい声で尋ねた。閉店していることを知らずに入ってきたわけではなさそうである。
「構いませんよ」
数は、そう答えるとカウンター席に座るよう手で示した。男は言われるままにカウンター席に腰を下ろしたが、疲れているのか、一つひとつの動作がスローモーションのようにのろい。
「何か飲まれますか?」
「あ、いえ……」
閉店後にやって来て何も注文をしない客がいれば、普通の店員なら戸惑うものである。だが数は、
「わかりました」
と、男の返答をさらりと聞き流し、静かに水のグラスだけを差し出した。
「……あ」
男は自分の言動のおかしさに気付いたのだろう、あわてて、
「す、すみません、じゃ、コーヒーをお願いします」
と、付け加えた。数は、
「かしこまりました」
と、伏し目がちに答えると、キッチンに姿を消した。
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