十月上旬と言えば、朝晩は随分と冷え込むようになっている。清は薄手のトレンチコートを脱ぎながら、入口に一番近いテーブル席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
水を出しながら数が声をかけると、清は、
「コーヒーをお願いします」
と、答えた。カウンターの中にいた流が「かしこまりました」と言ってキッチンに姿を消す。
京子は流の姿が見えなくなると、数にだけ聞こえるような小さな声で、
「そういえばさ、この前、数ちゃんが駅前で男の人と歩いてるの見かけたんだけど、あれ誰なの? もしかして彼氏?」
と、ささやいた。
京子は滅多に見られない数の照れたような表情を期待しているのだろう、目は爛々と輝き、ニヤニヤと下世話な表情を浮かべている。
だが、数は涼しい顔で「はい、そうです」と、さらりと答えた。京子は、面食らったような顔をして、
「付き合いはじめたのは春からです」
「え? 数ちゃん、彼氏いたの?」
と、素っ頓狂な声を上げて、カウンターの中にいる数に詰め寄るように身を乗り出した。
「ええ、まぁ」
「いつの間に……?」
「美大に通ってたときの先輩で……」
「……てことは、もう付き合って十年とか?」
「あ、いえ、付き合いはじめたのは春からです」
「今年の?」
「はい」
京子は「あー、そー」と、カウンター席から落ちるんじゃないかと思われるほど後ろにのけぞって、大きなため息を漏らした。
しかし、店内で驚いているのは、京子一人である。入口近くのテーブル席に座っている清は、こういった色恋沙汰に興味はないのだろう、黒い手帳を取り出してぼんやりと見つめているだけだった。
京子はキッチンにいる流に向かって、
「流さーん、数ちゃんに彼氏いるの知ってた?」
と、大きな声で叫んだ。狭い店内である。叫んで、すぐさま京子は(声、大きすぎたかしら?)と肩をすぼめ、数の顔色をうかがった。
だが、数自身は、相変わらず涼しい顔でグラスを磨いている。数にとっては別段隠すことではない。ただ、聞かれたから答えただけだった。
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