毒殺説もある偉人「孝明天皇」が幕末に残した衝撃 「徳川慶喜」最大の庇護者、謎多き最期と存在感

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突然の死によって暗殺説がささやかれた孝明天皇(左)とその主犯とうわさされた岩倉具視 (左写真:近現代PL/アフロ、右写真提供:akg-images/アフロ)
江戸幕府における第15代将軍にして、最後の将軍となった徳川慶喜。その最大の後ろ盾となっていたのが、第121代天皇にあたる、「孝明天皇」である。攘夷派の代表として多大な影響力を持った孝明天皇は、幕末におけるキーマンでありながら、語られることが少なく、実態はあまり知られていない。いったい、どんな人物だったのだろうか。最終回となる今回は「暗殺説」もささやかれる孝明天皇の最期と、その後の徳川慶喜の覚醒について述べていこう。
<第5回までのあらすじ>
安政5(1858)年、幕府は勅許(天皇の許可)を得ることなく、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約を締結(第1回)。嘉永7(1854)年のペリーとの日米和親条約のときには反対しなかった孝明天皇だが、このときは激怒する。外国と親交を持つこと自体は、時代の流れとして受け入れていたが、外国との通商には慎重な考えを持っていたためである。朝廷内で最も敵に回したくない人物だった開国論者、鷹司政通を失脚させ、主導権を握った(第2回)。
そして、まさに水を得た魚のごとく、勢いを増していく。幕府が、勅許を得ずに日米修好通商条約をアメリカと締結すると、孝明天皇は「譲位も辞さない」という強硬姿勢に出て、幕府との対立を深めていく。そして水戸藩に密勅を下すという逸脱行為が「安政の大獄」へとつながり、不遇の時期を自ら招いた(第3回)。だが「桜田門外の変」で大老の井伊直弼が暗殺されると、再び政治の表舞台へ。徳川慶喜と密接な関係を築く(第4回)。お互い頑固者であり、考えの違いはあるものの、日米修好通商条約では慶喜の決死の覚悟により、孝明天皇は勅許を出した(第5回)。

慶喜への将軍宣下の直後に死亡

慶応2年12月5日(1867年1月10日)、孝明天皇が二条城で将軍宣下を行い、徳川慶喜は15代将軍に就任した。

これまで再三、将軍就任を拒んできた慶喜に決断させたのは、やはり孝明天皇である。慶応2年11月27日に孝明天皇が将軍宣下の内勅を慶喜に下している。慶喜も孝明天皇に言われると、無碍にはできない。また、諸外国に約束した兵庫開港の期日が慶応3年12月7日と約1年後に迫る。切迫する外交問題も、慶喜に将軍就任を決意させた。

そんななか、同年12月25日、孝明天皇が突然崩御してしまう。慶喜が将軍宣下を受けてから、わずか20日後のことである。

死因は天然痘と診断されたが、毒殺説も根強い。というのも、孝明天皇の死によって、その子である明治天皇が14歳の若さで践祚(せんそ)することになった。薩摩藩をはじめとする倒幕派は、宮廷クーデターに成功。倒幕へと弾みをつけることとなった。

一時期は緩解に向かっていた症状が不自然に急変したこともあり、「倒幕派が孝明天皇を葬ったのではないか」とうわさが立つことになった。孝明天皇の病状は、どのように変化したのだろうか。

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