毒殺説もある偉人「孝明天皇」が幕末に残した衝撃 「徳川慶喜」最大の庇護者、謎多き最期と存在感
安政5(1858)年、幕府は勅許(天皇の許可)を得ることなく、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約を締結(第1回)。嘉永7(1854)年のペリーとの日米和親条約のときには反対しなかった孝明天皇だが、このときは激怒する。外国と親交を持つこと自体は、時代の流れとして受け入れていたが、外国との通商には慎重な考えを持っていたためである。朝廷内で最も敵に回したくない人物だった開国論者、鷹司政通を失脚させ、主導権を握った(第2回)。
慶喜への将軍宣下の直後に死亡
慶応2年12月5日(1867年1月10日)、孝明天皇が二条城で将軍宣下を行い、徳川慶喜は15代将軍に就任した。
これまで再三、将軍就任を拒んできた慶喜に決断させたのは、やはり孝明天皇である。慶応2年11月27日に孝明天皇が将軍宣下の内勅を慶喜に下している。慶喜も孝明天皇に言われると、無碍にはできない。また、諸外国に約束した兵庫開港の期日が慶応3年12月7日と約1年後に迫る。切迫する外交問題も、慶喜に将軍就任を決意させた。
そんななか、同年12月25日、孝明天皇が突然崩御してしまう。慶喜が将軍宣下を受けてから、わずか20日後のことである。
死因は天然痘と診断されたが、毒殺説も根強い。というのも、孝明天皇の死によって、その子である明治天皇が14歳の若さで践祚(せんそ)することになった。薩摩藩をはじめとする倒幕派は、宮廷クーデターに成功。倒幕へと弾みをつけることとなった。
一時期は緩解に向かっていた症状が不自然に急変したこともあり、「倒幕派が孝明天皇を葬ったのではないか」とうわさが立つことになった。孝明天皇の病状は、どのように変化したのだろうか。
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