毒殺説もある偉人「孝明天皇」が幕末に残した衝撃 「徳川慶喜」最大の庇護者、謎多き最期と存在感

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『孝明天皇紀』によると、慶応2年12月15日から孝明天皇は高熱を発した。その翌日に、吹き出物が出てきたため、17日に待医たちが痘瘡だと診断を下す。18日の夜には、2、3カ所で痘の色が紫色になったので、塗り薬をつけ、漢方の「抜毒散」を服用している。

19日には、発疹が水泡状に腫れあがってきた。夜は安眠できなかったものの、その後は順調な経過をたどる。23日には、発疹からの膿も出切った。医師たちも「明日からは、かさぶたができるだろう」と安堵していた。

その快方ぶりは食事にも表れる。病に伏せた当初は重湯くらいしか食べられなかったが、発疹が緩解に向かった23日には、ほぼ通常の食事をとれるまでに回復した。

「今朝より至極静かで落ち着いたご様子」

23日の食事メモには、そう記載されている。待医たちのほっとした様子がありありと伝わってくる。

不自然な死により、ささやかれた「毒殺説」

しかし、24日の夕方から事態が急変する。下痢と嘔吐の発作に苦しむようになり、脈も微かなものに変化していく。そして四肢が冷たくなり、25日に孝明天皇は突然の死を迎えることになった。

大納言の中山忠能は、娘の慶子が孝明天皇の後宮に入っていたため、天皇の病状について娘から情報を得ていた。『中山忠能日記』には、孝明天皇の最期について、次のように書かれている。

「二十五日後は御九穴より御脱血」

「九穴」とは、両目、両耳、口、鼻腔、尿道口、肛門のことで、そのすべての穴から出血したという。すさまじい最期だったことがわかる。

回復傾向にあっただけに、病状が急変して死亡にまで至ったことに、周囲は騒然する。その不自然さから、まことしやかに「毒殺説」がささやかれることとなった。

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