毒殺説もある偉人「孝明天皇」が幕末に残した衝撃 「徳川慶喜」最大の庇護者、謎多き最期と存在感

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だが、同時にそんな岩倉が、天皇の発病という偶然に頼って、重大な暗殺を行うであろうか。また、孝明天皇を計画通りに亡き者にしたということならば、その後は岩倉が朝廷改革を主導したはずである。

しかし、実際には、朝廷には人材が枯渇しており、また薩摩藩も倒幕に踏み切るような状態ではまだなかった。

では、孝明天皇亡き後に、朝議を思いのままにしたのは誰だったのか。それは、ほかならぬ徳川慶喜であった。

孝明天皇の崩御によって、徳川慶喜は最大の後ろ盾をなくしたとされている。そのこともまた「倒幕派が孝明天皇を暗殺した」といううわさに真実味を与えてきた。

確かに、慶喜にとって孝明天皇は最大の庇護者だった。だが、自分に大きな力を貸してくれる庇護者の存在は、時に大きな足かせにもなる。その証拠に、慶喜は孝明天皇の死をきっかけに堂々と開国を打ち出して、意欲満々に行動を開始する。

兵庫開港を「将軍の責任を持って断行する」と確約

慶喜は、イギリス、オランダ、フランス、アメリカの4カ国の公使を大阪に集結させて、順番に会見。これまで引き延ばしてきた兵庫開港を「将軍の責任を持って断行する」と確約したのである。

「慶喜の独断を許すまじ」と、島津久光のほか、山内豊信、伊達宗城、松平慶永らがそろい、四侯会議が開かれるも、強固な攘夷論者だった孝明天皇はもういない。会議は、慶喜の圧勝に終わり、4人とも言い負かされてしまう。

翌日の朝議では、慶喜は公卿たちを相手に「今日はぜひ勅命を下していただきたい」と30時間も粘り、強引に勅許をもぎとっている。これで兵庫は開港されることが決まった。まさに慶喜の思惑どおりである。幼い明治天皇にいたっては、朝議に出席すらしていない。

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