毒殺説もある偉人「孝明天皇」が幕末に残した衝撃 「徳川慶喜」最大の庇護者、謎多き最期と存在感

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慶応3年1月5日、横浜から兵庫へと赴いたイギリスの外交官アーネスト・サトウは、プリンセス・ロイヤル号の甲板で、日本の貿易商人から「孝明天皇が崩御した」という知らせを受けた。

そのときのことを次のように回想している。

「天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという」

当時から、孝明天皇の死には暗殺がうわさされていたことがわかる。先に紹介した『中山忠能日記』には、女官の手紙も収められており、そこにも「孝明天皇は毒を献じられた」という「献毒」のうわさが書かれている。周囲の影響を考えて、孝明天皇の死が4日間、隠されて29日に公表されたことも、黒いうわさにつながったようだ。

主犯として名前が挙がるのは「岩倉具視」

もし、暗殺されたとならば、誰の仕業なのだろうか。後世の研究者により、主犯として名を挙げられているのが、公家の岩倉具視である。「王政復古の実現を強く願っていた岩倉にとって、親幕派の孝明天皇は大きな障害だったはず」とし、毒殺する動機が十分にあるというのだ。

当の岩倉はといえば、孝明天皇が崩御されたと聞いて、驚きを隠せなかった。国学者の坂本静衛に宛てた手紙で、「仰天恐愕、実に言うところに知らず」と嘆き、「無量の極に至れり」と無念さを吐露している。手紙には次のようにもあった。

「いささか方向を弁じ、少しく胸算を立て、追々投身尽力と存じ候処、悉皆画餅となり」

岩倉は胸算用を立てていたが、孝明天皇の崩御によって、すべて画餅に帰したというのだ。いったい、どんな計画を立てていたのか。「全国合同策密奏書」によると、岩倉は慶応2年に孝明天皇に対し、

「実ニ朕ノ不徳、政令其当ヲ失ヒ、統御其宜ニ違ヒ候ヨリ致ス所」

との勅を出すべきだ、としている。つまり、国内の混乱をあえて「自らの不徳」として、責任を引き受けたうえで政治の一新を担うべしと、岩倉は孝明天皇のリーダシップに期待していたのである。

それだけに、突然の死によほど失望したのだろう。岩倉はこの手紙で「木こりになって山に籠もる」とまで言っている。

もし、岩倉が孝明天皇暗殺の首謀者だったとすれば、この手紙はカモフラージュということになる。岩倉の深謀遠慮を思えば、ありうる話だ。

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