2013年夏の甲子園で決勝まで41イニング自責点ゼロの快投を続け、評価を一気に高めた髙橋だが、群馬大会開幕時点ではエースの座を確立していなかった。3、4戦目からようやく状態を上げ、荒井は「この子を軸にしたほうがいいのかな」と考える。準決勝、決勝はまずまずの出来で、甲子園で才能が開花した。
「甲子園のマウンドは『近く感じる』と言っていたが、気持ちよく投げている感じがした。普段、髙橋にうるさく言うのは、『試合のつもりでやるとか、本番のつもりではダメ。これが本番だと思ってやれ』。これが本番と思えば、つまり本番で課題が出たことになる。もともと体力もあり、足も速くて、身のこなしも悪くない子。緩急の使い方や打者との駆け引きなど、試合で経験しながらいろんなことを覚えていった」
実戦で伸びる姿を見てきたからこそ、荒井は目の前の秋季大会だけを見据えるのではなく、髙橋を日本代表に送り出した。成長できる場所を作ってあげることが、指導者の役割だからだ。
「父と甲子園に行く」という誓い
その方針は、チームの4番サード、主将として甲子園優勝に導いた息子である海斗の育て方によく表れている。
アマチュア野球の指導者はグラウンドにいる時間が長く、休みの日も限られているため、一般ビジネスマンと同じように自分の子どもと接することは難しい。海斗が小さい頃、荒井はほかの父親のようにキャッチボールをしてあげることができなかった。
息子に申し訳ない気持ちを抱く反面、「高校に入れば、毎日見られる」と思っていた。海斗は小学生の頃から「父と甲子園に行く」と誓い、前橋育英に入学した。
グラウンドでの関係は父親と息子ではなく、監督と選手。荒井は変な気を遣い、「『同じユニフォームを着られるのは幸せ者だな』と思いながら、どこかで『早く終わらないかな』とも思っていた」。1年生の頃に試合で起用したら、周囲に「なんで使うんだ?」と批判されたこともあった。
だが、監督と選手の関係だからこそ、息子に伝えられたことがある。
「海斗が違う学校に行っていたら、人間的な話はあまりできなかった。一般的に自分の子って、自分では育てられないと思う。もちろん金銭的に面倒を見ることは必要だけど、それ以外はいろんな人に育ててもらう部分が大きい。たとえばグラウンドで監督の僕が選手の海斗に精神的な話をするのと、海斗が違う学校に通っていたとして、そこで教わってきたことを自宅で父親の僕にするのは、意味合いがちょっと違うでしょ? 海斗とはグラウンドでほとんど会話なんてしていないけど、『人として大事なことはこうなんだ』という話をできた。それを次の環境で生かしてほしい。せがれと甲子園で優勝できたし、最高の夏だった」
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