最初は断った監督就任
一代で財を成した創業者の跡を継ぐ“二代目社長”や、組織を見事にまとめ上げた上司の後釜に座る“新米管理職”は、就任前からプレッシャーを感じているはずだ。前任者と違ったカラーを打ち出したいところだが、大きく変えすぎても組織は瓦解する。周囲の見る目は厳しく、乗り越えなければならない壁はとてつもなく高い。
「1度、『私には荷が重すぎます』と就任要請を断った。でも、周囲が背中を押してくれたから、決断することができた」
2013年夏の甲子園で常総学院硬式野球部を10年ぶりのベスト8進出に導いた佐々木力は、2年前の監督就任をこう振り返る。同校で19年間コーチを務めてきたが、自分がチームを率いることになるとは、微塵も想像していなかった。
佐々木をそう感じさせたのは、前任者があまりにも偉大だったからだ。1983年に創部した常総学院を全国の名門に育て上げた、名将の誉れ高い木内幸男。85年に監督に就任して以来、仁志敏久(元巨人)、金子誠(日本ハム)、大﨑雄太朗(西武)らを育て、甲子園では春夏通じて優勝、準優勝をそれぞれ2回達成している。見事な人心掌握術や相手のスキを突く戦法は「木内マジック」と呼ばれた。
木内は過去に2回、監督の座を降りている。1度目は72歳だった2003年。夏の甲子園決勝でダルビッシュ有(現レンジャース)を擁す東北を破り、2度目の全国制覇を成し遂げて花道を飾った。後任には竜ヶ崎一高や藤代という茨城県内で指揮を執ってきた持丸修一(現・専大松戸野球部監督)が就いたが、甲子園で1勝も挙げられないまま07年夏に退任し、木内が監督復帰する。11年夏、年齢と健康を理由に勇退した。
名門・常総、名将・木内――。ふたつの重圧を背負った佐々木がまず打ち出したのは、「継承」の二文字だった。
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