「私の野球感の80%以上は木内監督によるもの」
そう語る佐々木は1984年夏、木内率いる取手二高の2番・セカンドとして全国制覇を成し遂げた経験がある。恩師の下で長らくコーチを務め、まさに“木内チルドレン”と言える後継者だ。
ただ、残り20%は違う色に染まっている。
「コーチ時代に、対戦相手の攻撃パターンや練習方法を学んだ。たとえば『浦和学院のスタートはいいな』と覚えて、監督になった今、選手に『ここは変えるから』と説明しながら行っている。走者のリードの取り方や、スタートの切り方は木内監督の時代とは違う部分もある。チームのベースは木内野球だが、現代野球も必要。とにかく勝って茨城代表になって、甲子園で上位に居続けた時代を取り戻す」
2013年夏、10年ぶりにベスト8進出を果たすことができたのは、「80%」と「20%」のバランスがうまく取れていたからだろう。
この大会では、済美の安楽智大による登板過多が大きな話題を呼んだ。3日連続登板を含め5試合で772球を投げた反響は、アメリカにも届いたほどだ。
エース復活のために打った3つの手
その一方、常総学院が準々決勝まで勝ち上がることができた裏には、佐々木による「肩は消耗品」という考え方がある。
エースの飯田晴海は春のセンバツで自己最速となる球速141kmを計測したが、済々黌に初戦敗退を喫した。自身のミスが絡み、ストレートを打たれたことが敗因だった。飯田は自信喪失し、大会後に調子を落としてしまう。夏の甲子園へと続く7月の茨城大会を数カ月後に控え、ストレートの球速は130km台中盤まで落ちた。
焦る飯田を見るたび、佐々木は「投げるな」とストップをかけた。コーチ時代、肩やヒジの負傷で投手生命を終える者を何人も見てきた。
「指導者に『投げろ』と言われたら、高校生は投げるしかない。故障した選手を病院に連れていったこともある」
中学時代に全国優勝した経験を持つ飯田は、過去に肘を負傷している。小さい頃から街中で有名だった大器に、同じ過ちを繰り返させたくないと佐々木は考えた。だが、焦る気持ちは抑えてやる必要がある。そのために、佐々木は3つの手を打った。ひとつは、言葉がけだ。飯田に対し、佐々木はこんな話をしている。
「コントロールはお前の持っている天性の武器だから、調子が悪くても崩れない。お前は投げることで調子を上げていくタイプのピッチャーではない」
そうしてメンタルケアをすると同時に、投球練習のスケジュールを管理した。ブルペンに入るのは中2日の間隔を空けさせ、球数は100球以内に制限。投げる代わりに走り込みを行わせたことで、下半身の土台が強化されると同時に、肩の疲労が抜けていった。
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