ノムさんの人生が示す、「一流」と「二流」の差 妥協、限定、満足は禁句

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26年間の選手生活で本塁打王9回、打点王7回を獲得した野村克也。監督としてだけでなく、選手としても一流だった(写真:岡沢克郎/アフロ)

急成長の裏に、“モノマネ”と“エアビデオ”

プロ野球界で「凡才からトップに登り詰めた」選手の中で、最たる成功者といえば野村克也だろう。

野村は長嶋茂雄や王貞治と並ぶ日本球界の“伝説”だ。現役として26年間プレーし、プロ野球史上最多の3017試合に出場して本塁打王を9回、打点王を7回獲得。現役引退後は南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務め、リーグ優勝5回、日本一3回、歴代5位の通算1565勝を飾った。

成し遂げてきた栄光とは対照的に、1954年に南海(現ソフトバンク)と契約金ゼロのテスト生で入団した当時は、誰も注目しないような選手だった。楽天の監督を退任した翌年、筆者が行った野球雑誌『Baseball Times』のインタビューで、野村は入団したばかりの頃について独特の口調でぼやいている。

「無視、まったくの無視。首脳陣には何も期待されず、無視されていた。その中から何とかはい上がって、監督やコーチの目をこっちに向けさせなければしょうがないと思っていた」

鶴岡一人監督(当時の登録は山本一人)にブルペンキャッチャー的な役割を兼ねて拾われた野村は、プロ入り1年目の1954年、わずか9試合の出場に終わった。2年目は出場機会ゼロ。守備を鍛えて3年目から正捕手に定着すると、このシーズンオフの秋季キャンプで勝負に出た。

「まずは練習で目立たなければしょうがない。いちばん目立つのはバッティング。スタンドばかり目がけてバッティング練習をやっていた」

入団当初から打撃に苦しんできた野村だが、この頃になると、フリーバッティングで10球のうち7、8球をオーバーフェンスできるようになったと振り返る。急成長の裏にあったのは、“モノマネ”と“エアビデオ”だ。

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